羨望

刀身が肉を裂くぐにゃりとした感触が手に届いて、内心顔を顰める。あの戦争で多くを殺した俺であったけれど、その大半は遠くから相手の崩れ落ちる姿を見るだけであったから、これ程までに生命の息吹が失われていくのを間近で感じたことは或いは一度も無いやも知れなかった。あまりに呆気なく死に絡め取られていく父上を見つめながら、俺は本当に薄らと微笑んだ。

きっとその顔は父上には見えなかっただろう。俺は短刀を差し込むために父上に身体を寄せていたのだから。身を寄せて初めて感じる父上の香り、熱、呼吸、生命の拍動に俺は面白いことに感動すらしていた。

これが世に言う「父親」というものなのかと。

「俺は別に父上、貴方が憎くて憎くて仕方なくてこのようなことをした訳ではないのです」

耳許でそう囁いてから一度身体を離して父上の顔をみれば、彼は息も絶え絶えに、傷口から真っ赤な血をぼたぼたと零しながら、俺を睨みつけた。流れる血の量からも、短刀を差し込んだ部位からも父上が助からないのは明白であった。きっと父上もそれを分かっておられたのだろう。俺に恭順することも命乞いをすることも無く、父上はただ、俺を睨みつける。それだけだった。

深くまで抉った短刀を限界まで押し込むように自重をかけてそれから捻りながら抜けば、笑ってしまうほどに呆気なく、父上は呻き声を上げながら崩折れた。足元に無様に転がる男を見る。

これが俺の父上。

ずっと、憎んでいた訳ではなかった。

「愛されていなかった」という事実は俺にとって呼吸をするより当然に身体に染み付いた事実そのものでしかなかったのだから。俺だけが特別な訳ではないこともまた、知っていた。俺のような境遇の餓鬼は掃いて捨てるほどいるし、或いは俺よりももっと悪い、社会の底辺で泥を啜る人生だってあったかも知れないのだ。俺はまだ、「マシ」な方だった。

それでも、あんこう鍋を作る母の背も、俺が仕留めた野鳥の最期の温みも、毒を混ぜる俺の震える手も、母の死に顔も、その全てを。全てをこの男が知らずにのうのうと生きているのはこの上なく、無責任だと思ったのだ。

「何を今更、とお思いかも知れませんがね。……行いには必ず結果がついて来るということでしょうか。貴方の行いにも、俺の『この行為』にも」

血に塗れた短刀をなぞれば、刃に残った鮮血が俺の指を汚す。呆気ない。何と呆気ない。あれ程母の、俺の意識に強烈な印象を与え続けた男の最期にしては実に呆気ない幕引きに俺の方が拍子抜けしてしまう。

ずっと届かないと思っていた存在に手を伸ばせば存外簡単に触れてしまえたのだから当然と言えば当然だろう。

親子らしいことなど何一つしていない。祝福すら与えられなかった俺とこの男の間にある文字通りの「血の絆」を今、俺は自らの手で断った。その最期の、餞のつもりだったのだろうか。

ふと、孝行めいた感情が湧く。「宝物」を遺して逝くのは辛かろうと。せめて「それ」が心安らかになるよう計らってやるのもまた、遺された「倅」の役目であろうと。

「……ああ、そう言えば父上、貴方の『宝物』にもお会いしましたよ」

薄く笑う俺に父上は如実に顔色を変える。ああ、それ程までにあの娘が愛おしく大切か。勇作の死の真相を伝えた時ですら、そのような顔はしなかったろうに。呆れるくらいに血相を変える男が憐れで仕方がなかった。

「美しく、聡明なお嬢さんですね。容姿は母君に似たのでしょうか。心根もいたく優しい。先日お会いした時など大切な兄君を亡くされたばかりだと言うのに俺のことを案じてくださいました。……勇作さんと同じく、『祝福された子ども』そのものだ」

彼女のことを脳裏に思い描く。大切な兄を喪った辛さ悲しみを押し殺して微笑む健気さは俺の琴線を確かに擽った。自然と持ち上がる口端に父上は誤解したのか、俺を益々鋭い目付きで睨み付ける。視線で射殺すとはよく言ったものだ。もう、俺の顔が見えているかも怪しいと言うのに。

「……なまえまで巻き込む気か!?この、人でなしめ!!」

大切な「宝物」を守ろうとするその顔は、俺が望んでも得られなかった祝福の証。ああ、勇作もなまえも愛されていたのだ。……俺とは、違って。

「……巻き込む?ははっ、誤解ですよ。貴方亡き後、彼女を唯一守れるのは俺ですよ。……同じ血の半分を持つ俺だけが。尤も、貴方は不本意かも知れませんがね」

可笑しいくらいに笑いが込み上げてくるのをそのままに穏やかに笑んで見せれば父上は出血のせいで悪くなった顔色を更に悪くして俺を呪う。

「呪われろ……!人でなしの化け物め……!」

何と美しい親子の愛情だ。己亡き後の愛娘の身を案じるとは。俺には与えられなかったそれが酷く眩しい。

だが、全てはもう過ぎたことだ。俺は予定通りに父上の命を刈り取るし、遅かれ早かれなまえは俺の許に身を寄せざるを得ない。

俺を呪う父上の最期の言葉が途切れる迄、俺はただ只管に父上の全てを見つめていた。虚ろな目が光を失って、大きな身体が芯を失うまで、ずっと。

……父上、結局貴方のその目は最期まで俺を睨み、貴方のその口は最期まで俺への呪詛を吐き続けましたね。正直なところ俺はここに来るまで貴方に何をされようと言われようと何とも思わないと思っていました。しかし俺は心の奥底では本当は羨望していたのでしょうか。「彼ら」のように俺が俺であるということだけで、貴方の子だと誇ってもらえることを。俺という存在もあの兄妹のように祝福される道があったのかと。

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