花衣 纏いて家路

「約束」なんて忘れられたと思っていた。それは子ども同士の他愛も無い口約束で、俺はもうなまえさんは忘れてしまっていたのだとばかり思っていた。なまえさんの先導で近くの河原へと赴く。川沿いに八分咲きくらいの桜が何本も植わっていて、風にその花びらが何枚も散っていた。

「ここ、結構穴場なのよ。私も昔はよく来たわ」

俺の隣で桜を見上げるなまえさんは微笑んでいた。「あの頃」のような屈託の無い笑みでも、出会った頃のような疲れた笑みでも無い、深い感情を抱えた笑みだった。例えるならば、いつかあの男の事を見つめていた時のような。ああ、まだ彼女の心はあの男の許にあるのか。そう気付いたら、俺はもう、それが酷く綺麗に完結された物語のような気がして自分で納得してしまった。だから、なまえさんがそっと、俺の腕に自分の腕を絡めた事に柄にも無く、本気で驚いた。

「ど、どうしました」

「ううん、何でもないの。……でも、ごめんなさいね、」

「え?」

何に対する謝罪なのか分からず当惑する俺をなまえさんは見上げた。深い感情を湛えた瞳には俺が映っていた。その顔は随分と酷いものだった。別れの時の印象がそんな酷い顔だなんて嫌過ぎて俺はどうにか恰好の付く顔をしようとするのに上手く出来ない。当然だ。強がったって無駄なのだ。俺はただ一人、なまえさんだけは失いたくなかった。

「あのね、少し聞いて欲しいの」

「ええ、俺で良ければ……」

俺の震える声は気取られなかっただろうか。最後くらいなまえさんの中で「男」でいたかったのだが。けれどなまえさんは俺の想いなど知らないように深い息を一つだけ吐いた。覚悟を決めるように。そして桜を見つめながら口を開いた。

「私ね、まだあの人の事好きよ。多分この先もずっと好き。だって私の初恋の人だもの」

その言葉は俺を抉る。ああ、そんな事、知っています。それではどうか、この美しい物語にあなたの手で幕を引いてください。酷く美しい幕切れだと、俺は安堵すらした。

「私ずっとあの人の事忘れないわ。私の一番綺麗な『想い出』。そう、しようって決めた」

なまえさんの手が俺の手を取る。硬かった手は柔らかくなって、あの頃よりずっとずっと白くなっていた。振り払う事も出来たけれど、それが最後の餞別なのだと思ったらどうしても振り払うことは出来なくて俺は彼女に取られた手をじっと見つめた。

「私ね、あの人の戦死通知を貰った時、ああ、もういつ死んでも良いやって思ったの。あの人のいない世界なんかどうでもいい、って。でも、あなたに再会して、あなたの気持ちに触れて、少し、生きたいって思うようになったよ」

震える声に顔を上げる。なまえさんは俺を見ていた。微笑んで、俺を瞳に映して。美しい綺羅綺羅としたあの黒い瞳で、なまえさんは笑っていた。

「そ、れは……」

「……今更、何を言ったって私があなたを利用したことには変わらないし、今も利用しようとしているのかも知れない。私は狡い大人になってしまったから百之助ちゃんは幻滅しちゃったんじゃないかな。でも、あなたが私を生かしてくれたのは本当で、私はあなたの事、……っ!?」

言葉なんてどうでも良かった。俺はただ何も考えずになまえさんの手首を引っ張って俺の腕の中に収めた。花見の酔客が冷やかしたように口笛を吹いた事も気にならなかった。これが全て本当の事であると、教えて欲しかった。

「それは……、それは俺の台詞です。俺を救ってくれたのはあなただ」

「百之助、ちゃん……」

怖々と俺の感触を確かめるように俺の背に手を回すなまえさんに俺は唐突にある言葉を思い付いた。それは俺が言ってはいけない言葉だったのかもしれないけれど、今言わなければ俺は一生後悔する気がして彼女の身体を強く抱いてその耳許に唇を寄せた。

「…………ねえ、俺と一緒になってくれませんか。俺には、ずっとあなたしかいない。昔から。出会った時から。そして今も、このさきも」

ぎゅう、と強く彼女の身体を抱く。出会った時から俺はずっとなまえさんだけだった。俺たちは一度別たれてしまってこの糸は途切れてしまっていたのだと思っていた。でも俺たちはまだ繋がっていて一度は拗れたけれど、彼女の返事がどうだって俺はまた「生きるため」に生きる事が出来る気がした。

「…………私で、良いの?」

「逆に俺で良いんですか?よく考えて返事をしないと、一生を俺に握られますよ」

じわじわと赤くなるなまえさんの頬に微笑む。そうすればなまえさんもっと顔を赤くして俯いた。それでも俺の耳は確かに捉えた。「…………おねがい、します」とほんの小さく呟いたなまえさんの声を。

「……これは、夢じゃありませんよね?ははッ、どうしよう、凄く嬉しくて顔が変になりそうだ」

事実俺の顔は酷く緩んでいてとても見れたものではなかっただろう。なまえさんも気になったのか顔を上げようとするから慌てて俺は彼女を胸に抱いてその視界を遮る。

「顔を上げないでください。俺、今酷い顔をしているから」

「えっ、見たい!」

「駄目です。最初くらい俺に恰好付けさせてください」

「見たい」「駄目です」何度かその押し問答を続けて結局可笑しくなって二人で声を上げて笑った。なまえさんの頬は紅葉葉のように色付いていた。俺の顔もそうだったのかも知れない。今となってはもう、確かめようがないけれど。

微笑み合って、俺たちは桜並木の下を歩いた。色んな話をした。子どもの時の思い出話、なまえさんがいなくなってからの彼女の事、俺の事、沢山。どれくらいそうしていただろう。いつの間にか西日が差して、茜色に色付く空を見上げてなまえさんは振り返って微笑んだ。

「帰ろう、百之助ちゃん、…………私たちの、家に」

風が運んできたのだろうか。なまえさんの着物に纏う桜の花びらを一枚摘んで風に遊ばせて俺は頷く。花びらは風に攫われて消えて行った。俺たちの歩く先へと。

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