あの巣立ちのような儀式を経ても、なまえの俺たちに対する態度は劇的に変化することは無かった。つまり一定程度は変化したという事だ。まず声を掛ければ大抵の場合何かしらの言葉が返ってくるようになった。言葉と共に視線も投げ掛けられ、時にはそこに微笑みさえ上乗せされた。よくよく考えればそれは当然の応対かも知れないのだが、彼女の最初の態度を鑑みればそれは十二分の進展と言えた。
なまえは江渡貝の作業中、基本的に家を空けている事が多かった。それは江渡貝の働きだけでは足りない食い扶持を稼ぐ為でもあったのだろうし、江渡貝の作業を邪魔しない為の彼女なりの気遣いであるとも取れた。しかしどうやらなまえは毎日他家の手伝いに出ている訳では無いらしく、他所に仕事が無く、且つ天気の良い時は剥製所の玄関前に椅子を出して読書をしている事が多かった。
「本当は兄の稼ぎだけでも食べられなくは無いんです。でも兄が行けと言うから」
透明なガラス球のような瞳を陽光に輝かせながら、なまえは気の無い声でそう言った。ぺら、と頁を捲る速度は恐らく人並みより早いだろう。少し気になって彼女の手許を覗き込んだが、頁一杯に活字が埋め込まれていて読むのが面倒だったので、俺は早々に彼女が何を読んでいるのか把握するのを諦めた。
「では君が仕事をするのは所謂花嫁修業と言うやつの為か?」
「月島さんは、私のような女がお嫁に行けると思いますか?」
「…………」
「そこは否定しないと」
平坦な言葉とは裏腹にくすくすと小さく笑ったなまえはまた一枚頁を捲る。俺が彼女の傍に立っているせいで、なまえの手元に影が差してしまっていたようで、なまえは少し不機嫌そうな顔をして俺を手で払うような動作をした。
「暗いです」
「ああ、済まない。……何を読んでいるんだ」
休憩のつもりで外に一服しに来ただけだったが、予想外に気持ちの良い天気でまだ室内に戻る気にはなれなかった。それに江渡貝も先ほどまた酷い癇癪を起こしたばかりだったから、少し時間を置こうと俺はなまえの座る椅子の隣の地面に腰を下ろした。なまえは少し意外そうな顔で俺をちら、と見たが何も言わずに再び頁を捲る。
「今は狐と葡萄の話です」
感情の籠らない声だった。少し気になって、彼女の手を取って本の表紙を表に向けさせる。表題は『通俗伊蘇普物語』となっていた。
「本が好きなのか?」
「ん……、普通、です」
それからなまえは俺の感情を見透かすような瞳で俺を見た。この瞳を、なまえは時々した。何もかも分かっているような、何もかも知っているようなそんな瞳を。勿論核心を突いて来る事は無い。ただ「全て知っているよ」と言わんが如き顔で俺を見る。何を見透かされているのかは予想もつかないし、そもそもその顔自体俺の勝手な夢想である可能性の方が大きかった。それでも居心地は矢張り悪く、俺はそれを誤魔化すようになまえの手許を今一度覗いた。
「それで?どんな話だ」
「月島さんはあまり本は読まないの?有名な話だと思いますけど」
「軍人にそういう事を期待されても困る」
俺の言葉になまえは納得したように一つ頷くと、ぺら、と一枚頁を戻した。そして少し感じ入る所でもあるかのように目を細めた。
「お腹を空かせた狐が葡萄を見付けるけど、高い所にあって手が届かないの。何度手を伸ばしても届かなくて、諦めた狐は言うのよ。『あんな葡萄、誰が食べるもんか!きっとあの葡萄は酸っぱいに違いない』って」
「…………」
「…………」
「……、それだけか?」
「ええ、大体こんな話」
大いに拍子抜けした。あれだけ活字が踊る本だからどれ程小難しい事が書いてあるのかと思いきや。肩を竦める俺に気付いたのか、なまえは本を閉じると、ぐっ、と伸びをした。女らしい柔らかな稜線がしなやかに動くのが見えた気がして俺は少しばかり目を伏せた。
「手の届かない物を諦めるには、それ相応の理由がいるのでしょうね」
ぽつり、となまえの呟く声に伏せていた目を上げる。彼女はぼんやりと、遠くを見ていた。恐らく風に揺れる木々や煤けた青い空にたなびく煙や、遠くに聞こえる子どもたちのはしゃぐ声を感じながら、彼女はここではない、ずっと遠くを見ていた。
「私もきっと、沢山……」
その後のなまえの言葉は風に掻き消されて俺の耳には届かなかった。それでも彼女の言いたい事は何となく分かって少し彼女の顔から目を逸らした。
風が俺たちの間を吹き抜けて、なまえはその強さに怯んだように顔を背けた。軽くしか結っていない彼女の艶やかな髪が風に拐われて香油か何か甘い香りを漂わせる。
収まった風にため息を吐いて、なまえは手櫛で髪を整えると俺を見た。静かな凪いだ湖面のような彼女の瞳は初めて見た。落ち着いた、知性的な瞳はきっと他者には魅力的に映るのだろうと、そう思った。
「戻りましょうか。月島さんにも、お仕事があるでしょう?」
穏やかな声に俺はゆっくりと頷いた。しかし思い出したように口を開く。
「江渡貝が、まだ癇癪を起こしているかも知れない」
そう言えばなまえは一も二もなく兄の許に飛んで行くのだろうと思った。今までの彼女の在り方を見れば。しかし。
「……、じゃあ、もう少しここにいましょうか。兄が落ち着くまで。……北風と太陽です」
くすり、と仕方なさそうに微笑んだなまえは剥製所の扉の向こうに目を向けて、もう一度口角を上げて笑みを作った。その横顔は少しの罪悪感を孕んではいたが、それよりも多大な悪戯っぽさの方が目立って、なまえの顔を生あるものに見せた。俺は本当は室内に戻って前山と一緒に江渡貝を作業に追い立てなければいけない筈だったのに、その顔を見たらどうしても戻れなくて、頷いてしまっていた。
後で前山に責められたのは言うまでもない。
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