誰も知らない

俺の熱が漸く安定する頃には季節は既に初夏を通り越して本格的な夏へと移行していた。なまえねえさんが好きだと言った紫陽花もほとんどが萎れてしまっていた。

「ああ、もうすっかり季節を超えちゃったわねえ」

俺の家の庭を眺めながらなまえねえさんは少し残念そうにそう言った。それから彼女は少し悩んだように指を巡らせて無造作に重ねられた駒の中から香車を選ぶと静かに自分の方に引き寄せた。かたり、と駒の山が均衡を失って音を鳴らす。なまえねえさんはその音を聞くと頬を膨らませて持っていた駒を捨て山に置く。

「これで連続三回目。百之助ちゃんは上手なのね」

「……たまたまです」

驚いたような不思議そうな顔で俺を褒めるなまえねえさんに俺は何と言って良いのか分からずただそれだけを返して、山の中から銀に目を付ける。それを慎重に引っ張りながらふと、考え直す。なまえねえさんに気付かれないように指先を震わせれば、かた、と小さな音が聞こえる。なまえねえさんの顔を見たら酷くうずうずとしたような顔で笑っていた。

「……ほら、たまたまでしょう?」

「百之助ちゃんも失敗するのね」

くすくすと楽しそうに笑うなまえねえさんに嫌な感情はせず、俺は目を伏せて曖昧に頷いた。綺麗な笑顔はまだ直視する勇気が湧かなかった。

俺はもうずっとおかしい。なまえねえさんの事となると。

この人の顔を見ると俺はどうにも我が儘を言いたくなる。俺の弱いところを包んで欲しいような心持ちになる。俺の存在を赦して欲しいと思う。そして俺は俺の罪を束の間忘れてしまう。

俺はもうずっとおかしい。

「……百之助ちゃん?」

「え、?」

不意になまえねえさんの声がして俺は、はっとする。顔を上げればきょとりとした顔のなまえねえさんが首を傾げていた。大きな綺羅綺羅とした黒い瞳が陽光でもっと輝くのが見えた。いつの間にか俺はなまえねえさんの瞳だけは見る事が出来るようになっていた。

「まだ調子が悪いのかしら?」

心配そうに俺の額に手を当てるなまえねえさんの手は俺に焦れるような熱く不確かな感情を植え付ける。それは俺には初めての感情でどうしたら良いのか分からなくて俺はその感情を持て余していた。

「……っ、だ、いじょうぶ、です」

逃げるように顔を引き、俯く。不自然だ、不自然過ぎる。それでもうるさい心臓を抑えるにはこれしか俺には方法が無かった。なまえねえさんは尚も首を傾げていたけれど、俺がなまえねえさんを急かしたから再び駒の山に視線をやり、桂馬を引っ張り出すことに成功した。俺は歩を取り出そうとしてまた失敗した。

***

夕方になって外を見るなまえねえさんに気持ちが固く沈んでいくのを感じる。明日もあるのに、俺は今日、なまえねえさんと別れるのが惜しいのだ。一瞬だって、俺はなまえねえさんから目を離していたくなかった。俺を人間に戻してくれるなまえねえさんから。

「百之助ちゃん、私そろそろ、」

ほら。なまえねえさんは何でもないように俺にそう言って将棋の駒を片付ける。細い指が駒をかき集めるのを見ながら俺は思わずその手に俺の手を重ねていた。大きな目が不思議そうに俺の目を見る。不思議なことにその瞳は昼間の陽光に照らされている時とは少し違った煌めきを俺に見せた。

「……帰らないで」

「え?でも、」

「俺、嫌、だ。もっとあなたと一緒に、いたい」

ぎゅう、となまえねえさんの白い手を握る。みっともないのも迷惑なのも全てかなぐり捨てて俺はなまえねえさんに縋った。嫌われてしまうと思った。でも本当の俺はとても我が儘で欲しいものは何でも手に入れないと気が済まなくて、好き嫌いも沢山あって、一人だと天井の隅が怖い、手のかかる子どもなのだ。それをどうか否定しないで欲しかった。

なまえねえさんは少し考える素振りを見せてそれから眉を下げた。心臓が鉛のように重くなる。拒絶された、と思った。

「ご、ごめんなさい、俺、」

「えっと、明日は朝が早くて帰らないといけないの。……でも、良ければウチに泊まる?」

「……え?」

多分俺は酷く間抜けな顔をしていただろう、なまえねえさんが俺の顔を見て笑うのだから。歌うように彼女は「もし、お祖母さまが良いっておっしゃったらね」と言って俺の手を握った。バアチャンはすぐに了承してくれて土産に、と無花果をなまえねえさんに沢山持たせた。恐縮するなまえねえさんだったけれど結局はバアチャンに押し切られて、彼女は右手に俺の手、左手に沢山の無花果の入った袋を抱えて家路へと就いた。

なまえねえさんの家族は俺を嫌な顔一つせずに迎えてくれて、俺はそのことがまた心苦しかった。しかしそれを悟られてしまったのか、なまえねえさんの兄にもみくちゃにされた。

「ガキが気ィ遣うんじゃねえ!」

「そりゃあ兄さんは気遣いとは無縁でしょうね!百之助ちゃんと違って!」

頭を鷲掴みにされて揺さぶられる俺を逃がそうとするなまえねえさんと俺を取り返そうとする彼女の兄と、また始まったと言わんばかりに呆れたように俺たちを見るなまえねえさんの両親と他のきょうだいたちと一緒に俺は飯を食った。夕飯の後には俺の家の無花果が出て皆で舌鼓を打った。

「あまくておいしいね」

俺の隣でなまえねえさんの一番下の妹が舌足らずにそう言うのを聞きながら、俺は少しだけなまえねえさんを羨ましいと思った。俺にはもう、バアチャンしかいなかった。正しくは、バアチャンと、俺を捨てた父親の二人だけ。

夕食を食べ終わった俺は両親の手伝いをするなまえねえさんを背中に彼女の弟妹たちに少しばかり勉強を教えることになった。俺はそれほど勉強が好きな訳では無かったが、出来ない事も無かったので特に何も言わず、彼ら彼女らに平仮名の書き方を指南した。

「ああ、百之助ちゃんは上手な先生ね」

「き」の書き方まで指南した時、柔らかな声がして振り返ればなまえねえさんが座ってこちらを見ていた。彼女の弟妹たちが我先にとなまえねえさんに纏わり付く。

「百之助兄ちゃん教えるの上手なんだぜ!」

「ほめてもらった!」

きゃ、きゃ、と楽しそうにはしゃぐ子どもたちのなんと美しい事か。俺はきっとこれほどまでに美しい「家族」の光景を見た事は無かった。

「良かったわね。ほら、『先生』にお礼を言ってお風呂に入りなさい」

はあい、先生ありがとう!高い声が俺に纏わりついて離れて行く。俺は咄嗟に何も言えず頷くだけだった。

順番になまえねえさんもその家族も俺も風呂を頂いて後は寝るだけとなり、なまえねえさんは当然のように俺の布団を彼女の隣に敷いた。戸惑う俺に小首を傾げるなまえねえさんに、彼女の兄は「こいつ、一丁前に照れていやがる!」と大声で笑った。ちょっと黙っていて欲しかった。

「私の隣が嫌なら兄さんの隣にする?」

「いえ、なまえねえさんの隣が良いです」

「こいつ!!」

即答した俺をまたしても羽交い絞めにしようとするなまえねえさんの兄を躱してそれぞれ布団に潜り込む。一瞬バアチャンが俺のいない家で独りで眠る想像をして、心臓が磨り潰されるように痛んだ。俺ばかり、家族の温かみを想い出している。でも俺の心の中など彼らは知らないだろう。就寝の挨拶をして俺は目を瞑った。

少し経てばなまえねえさんの兄の存外静かな寝息が聞こえてきた。俺は天井の模様を繋いで頭の中で絵を描いていた。何となく緊張して、眠れなかった。寝返りを打ってなまえねえさんの方を見る。なまえねえさんは上を向いていた。声をかけたいようなずっと見ていたいような、そんな心持ちで俺は一度瞬きをした。

なまえねえさんの横顔には月の光がかかって、それがいつか俺の心を溶かした日の横顔と重なって美しかった。なまえねえさんは美しかった。白い頬も、綺羅綺羅した黒い瞳も、硬い手も何もかも、全部。美しいものに見入る時、きっと人は息を詰めてしまうのだろう。俺は呼吸すら忘れていた。

ゆっくりと、なまえねえさんが寝返りを打って月の光を背中に俺の方を向くまで。その瞳は眠たそうに蕩けて、でも柔らかに細められていた。

「……ねむれない?」

甘い声に俺は耳が壊れそうになった。なまえねえさんは嫣然と微笑むとあくびを一つ零した。それからもう一度、「ねむれない?」と舌足らずに繰り返した。

「いえ、あの、」

「さびしい?おばあさまが、こいしいかしら?」

白い手が伸びてきて優しく頭を撫でられる。別にそのような訳では無かったが、微かに頷くとなまえねえさんはくす、と笑って、掛け布団を捲った。

「おいで」

柔らかな綿のような声がして、俺は少し躊躇って結局なまえねえさんの布団に滑り込む。いつも傍にいる時に香るなまえねえさんの匂いがいっぱいになって俺はくらくらと眩暈がした。

「おやすみなさい、ひゃくのすけちゃん……、」

背中を幾度か擦られてそれからなまえねえさんはすう、と静かなゆっくりとした寝息を立てて眠りに落ちた。月明かりがなまえねえさんの顔に影を落とす。俺はじっと、その顔を見た。ただひたすらに。

「……おやすみ、なさい」

柔らかな温もりの中で俺は目を瞑って、一度だけ考え直して目を開けた。そして、少しだけ身体を伸ばしてなまえねえさんの柔らかな頬に静かに口付けた。

ごめんなさい、本当は全部嘘なんです。俺は本当は聞き分けのいい良い子ではないんです、あなたがいなくても一人で眠れるくらいには。

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