良く晴れた風の吹く日だった。本来ならば洗濯物の良く乾く日だっただろう。でも残念ながら家が風下にあったせいで干すのは止めておいた。以前風向きが変わった事に気が付かなくて、炭坑の煙で洗濯物を燻し上げた事を私は忘れてはいなかったからだ。だから洗濯物は家の中に干した。家事も一通り終わらせてしまった事で手持無沙汰になった私はふと、家の中を振り返った。
明るいと、そう感じた。
かつて私の、私たち兄妹の歪みの巣だったこの家は随分普通に見えるようになった。勿論相変わらず兄さんは人間の皮で新しい作品をあれこれ作るし、私だって父の代替品をきっぱりと忘れた訳じゃない。でも、この家は随分明るくなったと思う。母がいた時の澱んだ息苦しい薄暗さが幾分も払拭されて、私や兄さんは少しだけ正常になったのではないかと、私は確証も無いのにそう感じていた。
全て「彼ら」が来てからだった。外界からの異物が、私たちを変えた。
私たちに起きた変化は良い事なのだろうか。私は、兄さんは、変化を望んでいたのだろうか。今となっては変わる前の事は良く思い出せない。でも、今、息をするのが少しだけ楽なのは、きっと兄さんも同じだ。
(そうだ、兄さんにお茶を持って行こう)
兄さんは詰めの作業があるとかで昨日からずっと作業部屋に籠りきりだった。作業が詰めだという事は即ち、私と「彼」との永遠の別れもすぐだという事で、それに少し唇を噛んだ。そして首を振る。誰かとの別れを惜しんだ事は初めてだったけれど、それは彼との別れであるべきではないと私は知っていた。彼との別れは必然であってそこには恩情も慈悲も無い。彼は仕事のためにここに来て、仕事のために帰っていく。私の感情など、一連の出来事には全く不必要であった。
台所でお茶の用意をする。そう言えば、月島さんはお風呂に入りに行くと言っていたけれど、前山さんは行かないと言っていた。だったらお茶は兄さんの分と前山さんの分と、後で飲む私の分と三人分必要だ。そうだ、この間手伝い先で貰ったお菓子も出そう。
お茶の準備をして、そろそろと作業部屋へ向かう。ノックをしたらここ最近で一番明るい声が返事をして少し嬉しくなった。
「兄さん、お茶を淹れたわ。少し休憩したら?」
「ああ、なまえ。もうすぐなんだ、もうすぐ完成するんだ!」
弾んだ声が嬉しい。剥製を作っている時の兄さんの芸術的な指先も、生に溢れた作品を作ろうと試行錯誤している兄さんも、兄さんの作った剥製も全部、私は全部大好きだった。そうだ、私には兄さんがいる。月島さんがいなくなってしまっても、私には兄さんが。
「……出来た!!」
「え?」
「見て!なまえ、出来た!これ!本物みたいだろう!?」
興奮する兄さんに思考を遮断されて慌てて兄さんの手許を見る。私にはそれまでの作品と区別はつかなかったけれど、きっと兄さんが言うのだからこれが本当の完成品なのだろう。
「良かった……。兄さんの仕事が上手くいって、本当に良かった……!」
兄妹で手を取り合って笑うのも、久し振りな気がした。兄さんの手は月島さんの手より柔らかかったけれど、大きくて、ところどころに傷のある職人の手だった。この手といつまでも生きていきたいと、そう思った。
「早速、月島さんと前山さんに報告しないと。月島さんは今お風呂に入りに行ってるから、前山さんに、」
たった一度の物音が、私の言葉を遮って、私の世界を永遠に変えてしまった。今思えばそれが終焉の始まりだった。ガラスの割れる音、何かが倒れるような音。兄さんはまた彼らの内のどちらかが扉を開け閉めしたのだろうと怒って様子を見に行った。私は離れて行く兄さんの背中に、少し不吉な影を見た気がして、怖くてその背を追って、見た。
「前山さん!?」
倒れていたのは前山さんだった。頭から血を流して、ぴくりとも動かない。死体を見るのは初めてではなかったけれど、これ程までに「新しい」死体を見るのは初めてであった。つまり彼は既に死んでいると、すぐに感じた。
「なんで、」
「なまえ静かに!」
兄さんの鋭い声にびくりと身体が揺れる。兄さんは窓の縁から少しだけ顔を出して外を窺い見ている。その姿に心臓が嫌な風に高鳴った。今、家の外には私たちを狙う何者かがいて、そいつは前山さんを殺してしまうくらいの事はやってのけてしまうという事なのだから。
「なまえは床に蹲って姿を隠して……」
頼もしい兄さんの言葉も震えていて、兄さんの恐怖が窺い知れる。私も怖くて背中や掌にじっとりと嫌な汗をかいていた。震える手を握り締めながら考えるのは「彼」の事ばかりだった。お願い、早く帰ってきて。怖い、助けて。でもそんな願い、叶うはずない。
「……なまえ」
硬い声に、はっと顔を上げた。相変わらず兄さんは壁を背にして狙撃されないように隠れていた。窓から差し込んで来る光が兄さんの顔を逆光で見えなくさせる。
「なまえ。敵の狙いは十中八九、偽の人皮だ。だからボクは人皮を守らないと。なまえは『いつもの場所』に隠れておいで。大丈夫、全部終わったら必ず迎えに行くから」
「兄さん、」
「鶴見さんから頼まれた仕事だ。ボクを解放してくれた鶴見さんの。だからボクは絶対これを守らないといけないんだ」
「いや、兄さん止めて!人皮なんて渡してしまおうよ!相手は何をするか分からないんだよ!?もしかしたら、」
その先の言葉は口に出来なかった。最悪の想像はきっと兄さんもしていたのだろう。兄さんは薄らと笑っていたように思う。逆光の中でそれでも兄さんの顔は笑っていたと思う。それだけは兄妹だから分かった。そして兄さんの決意が固いという事も。
「なまえ、全部終わったらさ、旅行に行こう」
「旅行……?」
「そう。ボクらは今まで何にも見て来なかった。外の世界を沢山見て回ろう。色んな所で色んなものを見て、食べて、聞いて……」
まるで最期の言葉に、私は兄さんの言葉を遮るように頷いた。大丈夫、兄さんは約束を破ったりしない。それだけが今、この状況で心の支えだった。
「じゃあなまえ。ボクが迎えに行くまで『あの場所』に」
「兄さんも、無事で……」
外から姿が見えないように移動しながら心の中は不安で押し潰されそうだった。その心をただ、奮い立たせるのは兄さんとの約束だった。そして思い出した。いつも約束の時は必ず指切りするのに、今日はしなかった事。
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