錯覚の恋

雨は激しさを増し、庭の花々を濡らしていく。腕の中、なまえさんの熱をただ、感じていた。俺と彼女の呼吸の音だけが静かに部屋に広がって、空気が攪拌される。終わりは呆気なかった。そっと肩を押されたのを合図に俺はなまえさんを解放した。「あの時」のような虚しさは無かった。当然の帰結のように俺となまえさんの境界はまた明確になり、俺はそっとなまえさんの顔を窺った。揺れる瞳はそのままに、なまえさんは俺を見た。信じられないものを見るような、そんな目で。その事が面白くて息を吐くように笑ったら、更になまえさんを混乱させてしまったのか、彼女は目に見えて狼狽えた。

「な、何が可笑しいのかしら……!?」

「いえ、俺は自分が変わってしまったとずっと思っていましたが、案外変わっていませんでした。『あの頃』と変わりなく、俺はあなたの事が愛おしい」

少し躊躇って、なまえさんの頬に触れて上向かせる。何をしたい訳でも無かったけれど、ただ「あの頃」のように綺羅綺羅とした輝く瞳を見たかった。本当にそれだけのつもりだったけれど、なまえさんは何を勘違いしたのか慌てたように俺の口を白い手で塞いだ。

「だ、だめ……!」

怯えたように顔を背け、顔を赤らめるなまえさんは抜けていて可愛い、と素直に思えた。ああ、俺が口付けでもすると思ったのか。流石にそれは。

「流石に再会してすぐ、あなたの気持ちも確認せずに手を出すような男じゃないつもりですよ」

塞がれた口でくぐもった声を上げればなまえさんは自分の勘違いに気付いたのか今度は目に見えて顔を赤らめて急いで手を引っ込めた。それから言い訳のように「ええと、」だの「あの、その、」だの言っている。ああ、本当に可愛い人だ。正直にそう思った。護ってやりたいとも、思った。少し悪戯心が湧いてあからさまに不満そうな顔をして見せる。

「それとも、なまえさんは俺がそういう男に育ったと思ったんですか?少し、傷付くな」

「ち、ちが……!あなたが、百之助ちゃんが、凄く素敵な人になっているから驚いただけで……!」

「ははッ、恥ずかしい事を言うんですね。でも、あなたにそう思われるのは悪くない」

……あなたは俺の事を何も知らないからそういう事が言えるんだ。でも、どうしてかな、どんな女に何を言われても揺らがなかった俺の感情は、あなたが放ったお世辞にも満たない他愛も無い言葉に芯を失って崩れそうになるんです。

「ねえ、なまえさん。俺はきっともう、あなたの知っている『百之助』じゃないし、あなたも俺の知っている『なまえねえさん』じゃないのでしょう。でも俺があなたを好いているのは確かだ。それは俺やあなたがどれだけ変わろうと不変だ。それだけは知っていて欲しいんです」

もっと軽々しい言葉を吐き出そうと思ったのに、口を突いて出て来たのは随分と重い言葉ばかりで参る。全く、これじゃ俺が重い男みたいじゃねえか。

僅かにため息を吐いてなまえさんの輪郭から離れる。なまえさんは困ったような、悲しそうな、複雑な、でも正の感情の一つも無い表情で俺を見た。困惑しか表出していないその顔は俺の調子をどうにも狂わせる。女を手玉に取るような言葉や仕草の使い方を、俺は嫌という程知っていた。でもなまえさんを前にしたら立ち所にそんな技術は霧散してしまう。あれか。これが「骨抜き」ってやつか。……俺が、ねえ。

「……あなたは勘違いしているのね。幼い頃の僅かな想い出を美化して、私に恋をしていたと錯覚しているんだわ」

彼女の言い聞かせるような言葉に微笑みが募る。俺に言い聞かせようとしているならそれは無駄な事だ。俺は存外、頑固な方なんでね。そしてもし、あなたがあなた自身に言い聞かせているのなら、それは俺にも少しは見込みがあるって事だ。どちらにしたって俺にとっては都合の良い言葉でしかない。

「……まあ、すぐに信じられなくとも構いませんよ。俺は俺の感情について確りと把握しているつもりです。それに、俺はもう、あなたの知っている『百之助ちゃん』じゃない」

揶揄うように頬を撫でれば、なまえさんは柳眉を寄せて視線を落とした。彼女を困らせているのは分かっていた。でも困らせるくらい俺を意識して貰わないと始まらないんだ。無造作に彼女自身の膝の上に置かれていた白い手を握る。身を竦ませたなまえさんに手を引かれても、逃がさない。逃しなどするものか。もう、二度と。

「私には夫が『いて』、」

「だから?夫が『いた』女を慕うのは罪ですか?何度も言いますが代わりで良いんです。俺はあなたが俺を見て笑ってくれるのなら、道化の真似事だってしてみせる。あなたが悲しくないなら、何だって良い。俺は、代わりで良い。ねえ、代わりで良いんです……」

握り締めるなまえさんの手は白く変色して俺は滑稽で惨めだった。馬鹿みたいだ。こんな、必死になって。馬鹿みたいだ。好いた女に惨めったらしく縋り付いて。

「代わりなんて、無理よ……」

搾り出すような震える声でなまえさんが握られている手とは反対側の手を俺の二の腕に添える。彼女の声音の色は怒りでも呆れでも、況してや憐れみでもなかった。

それは悲しみだった。

「……あなたはあなた。百之助ちゃんはこの世にたった一人、あの人と同じくらい大切な人。……代わりになんて、無理、よ」

ぽろぽろと零れる透明な雫がなまえさんの頬を濡らす。泣かないでください。俺はあなたの笑った顔が好きだった。そして今も、それは変わらない。

「泣かないでください……。俺はあなたに泣かれるとどうしたら良いのか分からなくなる」

「だ、だって、自然に……!あぁ、もう、とまらな、っ」

なまえさんと共に彼女の濡れる頬を拭う。後から後から零れる幾重の涙の道筋を何度も指で辿って俺はもう一度、なまえさんを腕の中に閉じ込めた。俺のために泣いてくれたこのひとを、離したくなかった。

***

どれくらい、時間が経っただろう。気付けば日は傾いていて、雨はもっと酷くなっていた。憂鬱めいた感情が湧き上がる。帰らなくては、いけない。俺の業を、嫌でも思い出させるあの場所へ。

「……か、える?」

腕の中、ようやく泣き止んだなまえさんは、おずおずと俺を見つめてから目を瞬かせた。まだ少しだけ残っていた雫がつ、と彼女の白い頬に筋を残して落ちた。

「ええ、残念ながら」

「そう、」

夫以外の男の腕の中で泣いた事を恥じているのか、或いは泣き顔という無防備なところを見せてしまった事を恥じているのか、なまえさんは頬を染めて俺の腕から抜け出した。襟を正すように胸元に手を添えて少しばかり視線を他所にやった後、俺を見た。その目と俺の目が合った時、俺はこのひとはとても寂しい人になったのだなと感じた。きっと周囲には受け入れられている。彼女に親しみを感じる人間も多いだろう。それでも、彼女には、苦しみや悲しみを吐露できる人間はいない。そんな気がした。

「ねえ、なまえさん。申し訳ないんですが、傘を貸してください。ほら、こんなに土砂降りでは帰るまでに風邪を引いてしまいますから」

だから、そう口にした。そうすればまた、彼女の許を訪れる理由になるから。そうすれば、他に理由が無くたって、彼女の負いを俺も少しは肩代わり出来る気がしたから。

「……そうね。こんな雨の中、傘を差さなかったらすぐにずぶ濡れだわ」

窓から外を見上げ、憂鬱そうなため息を吐いたなまえさんは曖昧な表情で立ち上がった。それから障子を少し開けて人の名を呼ぶ。すればすぐに先ほどの女中がやって来た。

「……、奥様、いかがなさいました?」

明らかに赤い目のなまえさんに不審なものを感じたのだろう。女中は俺を怪訝そうに見た後、何でも無いように己の仕事に徹した。

「あの人の傘を持ってきて頂戴な。こんな雨の中でこの人を帰したら私が怒られてしまうわ」

くすくすと少女のように笑うなまえさんに女中は渋々といった風に頷いた。当然だろうな。元の主人の言わば形見を誰とも知らない男に渡すのは気が進まないだろう。その主人が慕われていればいるだけ。

「……返さなくて良いわ」

女中がいなくなったのを見計らうようになまえさんはそう、ぽつりと呟いた。

「私にはもう、不要なものだし、物も使ってあげないと可哀想だもの。だから、返さなくて良いわ、あなたが持っていて」

感情の起伏の少ない平坦な言葉に俺は首を振った。

「絶対に返しに来ます。それはあなたが持っていなければ、意味が無いものでしょう」

「…………そう、」

この世の全てに疲れたような小さな声だった。その声が、反比例するように俺に昔のようななまえさんの屈託の無い、幸せそうな笑顔を思い出させた。俺が大好きで、今だって見たくて堪らない柔らかな笑み。でも、それはもう。そう考えたら、彼女の笑顔を曇らせたあの男の事が、憎くて憎くて仕方なかった。

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