遂になまえを解放する時が来た。それは雨は降っていないまでも日の良く差さない曇りの日で旅立ちの日には相応しくないような気がした。見送りなど俺以外に当然誰一人おらず、俺はなまえが鶴見中尉に伝えた彼女の今後の身の振り方を改めて静かに聞いていた。すなわち夕張に帰るというなまえの選択を。
「本当に、良いのか」
第七師団が用意させた馬車を待たせておいて最後の確認をする俺になまえは苦笑して頷いた。それもそうだろう。俺はもう四回同じ事を聞いているのだから。それでも確認せずにはいられなかった。俺が言っていない、いや、言えなかっただけで夕張には、なまえを待つ者も、居場所ももう、無いのだから。
「月島さん、思ったよりもしつこいのね」
「しかし……、君が望むなら第七師団は君に新しい生活を用意してやれる。夕張に帰らずとも、ここで暮らすという選択肢もある。それは君の兄さんの願いで、」
俺の言葉を遮るように首を振ったなまえは笑った。美しい、微笑みだと思った。もう二度と俺が見られないと思ったあの微笑みがそこにはあった。
「兄の願いは兄のものだけど、私のものじゃありません。私、もう決めたんです」
「決めた……?何を?」
憑き物の落ちた顔でなまえは俺に耳を貸すように手招きした。膝を折って屈めば、なまえの唇が近付いてくる。ふわり、と香るのはあの剥製所で嗅いだ事のある彼女の匂いだった。
「私、決めたんです。夕張で兄を待ちます。いつか私の世界が終わるまで、兄の帰りを待ちます。それは兄の願いとは違うのかも知れないけれど、……私にはそれくらいしか、出来ないから」
密やかな、だが決意に溢れた声は固い意志を帯びていた。俺が何か致命的な事を言わない限り、例えば真実を言わなければ変わることは無いように思った。そして俺は迷っていた。彼女を引き留めるべきか、見送るべきか。
「だが、帰ったところで君の家はもう、それに江渡貝の行方は未だ、」
この期に及んで彼女の手を離せずにいる俺に彼女は笑った。その顔はいつか見た「あの子」の表情に似ていた気がした。
「だからこそ、です。帰った時に家が無くなってたら、兄は驚いちゃう。夕張に帰って、一からやり直します。私は兄のようには出来ないけれど、月島さんと出会えた分、兄とは違う事が出来るかもって思うから」
くすくすと笑うなまえの眦に浮かぶ涙を拭う資格は俺には無い。俺はなまえに江渡貝の最期すら隠したままなのだから。江渡貝の最期の言葉を彼女に伝えようと何度も思ってそして今、その最後の機会を逸してしまった。俺は知っていた筈なのに。当て所も無く待つ身の虚しさを。俺は彼女に自分を重ねていたのだと確かに気付いた。それでも、彼女の覚悟を、否、彼女がこれから生きていく寄す処を今更壊す事は出来なかった。
「お世話になりました。色々酷い事を言ってしまってごめんなさい。……あの夜の事、忘れません。……さようなら、月島さん」
微笑んで綺麗に一礼したなまえは俺に背を向けて、ゆっくりと馬車に向けて遠ざかっていく。その背中が、「あの子」に重なった。俺はもう会いに行けない。彼女の許にはもう誰も帰って来ない。彼女は俺で、俺は彼女だ。俺たちは良く似ていて、俺は知っていた。人が目的も無く生きてはいけない事を。
「っ、会いに行く!」
気付いた時には叫んでいた。恥も外聞も無く、なまえも弾かれたように振り返って、訝しそうに唇を引き結んでいた。待機している御者も怪訝な顔でこちらを見ている。その顔に気圧されそうになりながらも息を吐いて吸う。
「会いに行く、全てが終わったら。江渡貝が帰っていようがいまいが、必ず会いに行く。だから待っていろ!夕張で江渡貝を待ちながら俺を待て!」
全て言い終わって、肩で息をして、我ながら何を言っているのだと自分を恥じた。それでもそれは紛う事無き俺の本心だったと思う。たとえ江渡貝がもう二度と帰らなくて、なまえの事を誰もが忘れても、それでもせめて俺くらいは。なまえも俺の勢いに圧倒されたのか、暫くは目を瞬かせていたが、全てを理解したのだろう、くすくすと笑って、そして。
「待ってますね。その時は、あの夜の答えを教えてください」
ああ、その微笑みに俺は新しい、帰る理由を見つけるのだ。勝手な約束を、口実を作って、俺の生きる理由にして。その上もう一つ身勝手な想いを上乗せして。次に会う時はその頬を伝う雫の筋を拭いたいなんて、勝手な願いを。いつか、俺の世界が終わるまでに叶えたいと。
コメント