世の寄る辺

「それ」をなまえに伝えたのは作戦の決行から二日後であった。なまえはまだ病床に就いていたがそれでも起き上がる事は出来るようになっていて、俺が彼女の顔を見に行く度に夕張に帰らせろと懇願した。だがもう、その願いを叶えたところで意味は。

「……え、?」

江渡貝剥製所を焼いたと俺がまるで今日は良い天気だとでも言うような声音で徐にそう切り出したものだから、なまえは大きな瞳を呆然としたように更に大きく見開いた。俺が何か冗談でも言ったのではないかと錯覚したような彼女の顔は、生気が抜け落ちてまるで人形のようだと場違いに感じた。そして少し残念に思った。以前の、巣立ちしたあのすっきりとした憑き物の落ちたような人間らしい顔が好きだったのに、と。そして自嘲する。それを壊したのは俺だ。

「ど、ういう事ですか?剥製所を、焼いた……?な、なに、言って……、」

「そのままの意味だ。あそこには江渡貝の作品の痕跡が多過ぎる。作戦は一昨日決行され成功した。江渡貝剥製所は全焼した」

淡々と言わなければ、この娘はきっと俺を恨まないだろうとそう思った。優しいからではなく、彼女は諦めが強いから。俺たちが、いいや俺がまるで道に落ちている石ころを蹴飛ばすように江渡貝剥製所をこの世から取り除いたのだと彼女に思わせなければ彼女はきっと俺を恨む前に自死を選ぶだろうと俺には確信があった。あの雨の夜、笑いながら自分の死を願ったこの娘ならば、という確信が。

「……なん、で。何で、ですか?どうして、」

「同じ事を何度も言わせるな。あそこには江渡貝の作品の、」

「違う!!なんで私たちだったの!?私たちが、一体何をしたって言うの!なんで、なんで私たちがこんな目に遭わないといけないの……!」

悲痛な叫びと共に泣き顔を隠すように両手で顔を覆う彼女の夜着の袖から白くて細い手首が覗く。ここ数日ほとんど何も口にしていなかったせいで更に細くなった手首は痛々しくて、俺は一瞬彼女の存在そのものから目を逸らしたくなった。覚悟は疾うに決めた筈であったのに。

「……俺が、鶴見中尉に剥製所を焼くよう進言した」

「え……、」

彼女は何を思ってそんな顔をしたのだろう。弾かれたように顔を上げたなまえの表情は俺にしてみれば酷く滑稽であった。まるで、信じていた者に裏切られたとでもいうようなその顔は。この期に及んでお前はまだ、俺を僅かにでも信頼しようとしていたのか、馬鹿々々しい。

「中尉は作品さえ手に入れられればそれで良かった筈だ。俺が全ての証拠を消すよう進言した。中尉は俺の事を信用している、だから。恨むなら俺を恨む事だな」

俺は顔色を変えずに全てを言い終える事が出来た、と思う。それでも握り締めた掌は僅かに爪が皮膚を裂いたし、噛み締めた奥歯は軋んだだろう。どうせ気付かれちゃいないだろうが。なまえは俺の言葉の意図を量るように、そしてまだ僅かに裏切られたと思っているのか、怒りと恐怖と悲しみと不安の綯い交ぜになった複雑な、それでも確かな負の表情で俺を見つめていた。言葉は無く、いいやきっと言葉に出来ないのだ。大切なものをある日突然喪う衝撃を俺は知っていた。

「兎に角、お前を夕張に返す意味は当面無くなった。暫くはここで安静にしておけ。お前の処遇については今後協議するが……、少なくとも今の立場は自覚しておけよ。お前は今、微妙な立場にいる」

「……、よ」

小さな声は聞き取れず、首を傾げて彼女の様子を窺った俺の目に映ったのは憎悪滾る両の目であった。共に生活したほんの僅かな期間では到底拝めないだろうその色は、隙あらば俺の生命を喰らわんと爛々と輝いている。とても死ぬ直前の人間の目には見えなかった。

「誰の、せいよ……!こんなところまで勝手に連れてきて、何が微妙な立場よ!?勝手に人の居場所も何もかも奪って何様のつもり!?散々人の家を歪んでるって憐れんでおいて、あなたたちが来たせいで家はおかしくなってしまった!こんな事になるなら、歪んだままで良かったのに!」

はあはあと肩で息をするなまえの眦からまた一粒雫が零れ落ちる。ため息をついてなまえの方に改めて向き直って彼女に近付く。怯えるように身を引こうとする彼女の横に膝を突いて目線を合わすように少しだけ屈んだ。その瞳が湛える困惑の色の奥に俺が映っていた。酷い顔をして。

「言いたい事は、それだけか?」

「……そんな訳、ないじゃない」

「そうか。だが俺にはお前の生産性の無い恨み言を聞いている暇は無い。恨みたければ勝手に恨め。お前に恨まれようと俺はどうとも思わないし、俺は自分のした事を間違いとも思わない。精々俺を恨み続けろ、いつかお前の世界が終わるまで」

それくらいしか俺に出来ることは無い。俺に出来る事は最早奪う事くらいだ。俺に与える事を教えてくれた「あの子」はもう、いないのだから。

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