私たちはただ、何も言う事が出来ずに見つめ合うしか出来なかった。彼が黙ったのはきっと彼の中の大切なひとの存在を思い出したから。私が黙ったのは私が月島さんを傷付けてしまったのではないかという妙な恐怖を感じたからであった。あれだけ自分が傷付けられるのを嫌がった癖に他人を傷付けるような言葉を吐いたかもしれない自分が恐ろしかった。過ぎていく時間だけがただこの沈黙を拡大させて、私の恐怖を加速させた。
「……あの、」
「なあ、」
何か言わなくてはと、縺れる舌を動かしたのは彼も同じだったのだろうか。私たちは同時に言葉を切り出して、同時に黙りこくった。自分が何を言いたいのか分からないまま切り出した言葉の先を私は知らず、彼もまた、彼の言葉の先を探しているようであった。
「……、どんな、人だったんですか?」
それは当たり障りのない問いのようでかなり確信的だったと思う。事実月島さんは息の詰まるような顔をして、それから項垂れるように視線を落とした。その様子は彼がまだ、その人の事を大切に想っていてそして、罪の意識を感じているのだと私に教えた。私が兄さんに抱いている想いとまるで似ているように。
「……俺は、あまり家族には恵まれなかった」
ぽつりとまるで器に一杯になった水が耐え切れずに縁から零れるように、彼は小さく密やかに言葉を紡いだ。それは彼の物語のようで、私の来し方と良く似ているような気がした。罵声と暴力に支配された幼少期。世界を憎んで、それ以上に何も出来ない自分を嫌った。世界の誰にも受け入れられず、孤独に生きた。そして。
「俺の名前を、『あの子』だけが呼んでくれた。俺の世界で『あの子』だけが俺に与えてくれた。彼女の為なら、俺は……」
「……何だって、出来た?」
言葉を探すように押し黙った月島さんの手を引くように私は彼の言葉の続きを探してみた。私の継ぎ足した言葉に彼は納得したように頷いて「……そうだ、何だって出来た、……いや、出来る」と不明瞭に呟いた。彼の様子を見ながら私も兄さんに思いを馳せる。私は月島さんのように兄さんを愛していただろうか、と。勿論そこには男女の情と家族の愛という違いはあるけれど、私は月島さんのように兄さんを愛しているのだろうか、と。もしかすると私が兄さんを愛していたのは、兄さんと同様の境遇で育った私という存在を自分自身が肯定したかったからなのではないかと、今になってその恐ろしい可能性は唐突に私の目の前に横たわった。
私は、私は兄さんの為なら何だって出来る訳じゃない。母さんの矛先が兄さんに向かっていた時、私は一体何を考えていた?あの矛先が私に向かわなくて「良かった」とただの一度も思わなかっただろうか。剥製所が襲われた時、私は兄さんの為に何もしなかった。現に今この瞬間だって私は逃げ出して夕張に帰ろうと思えば帰る事が出来るのに帰らない。馬鹿みたいに布団に包まって泣きながら憎もうとする相手の恩情に縋っている。
私は兄さんを愛して。
「……、わからない」
「……なまえ?」
震える声は意図せず口を突いて出たものだった。私自身思いもかけない言葉だった。ここに来て初めて、私は私の拠り所を疑っていた。私は本当に兄さんを愛していたのか、或いは兄さんを愛している自分を愛していたのか、それとも。
「分からないんです。私の世界は、兄さんの為にあった筈なのに……!ねえ、月島さん、私は兄さんを愛していましたか?ううん、愛しているって何ですか?それは自己満足と何がちがうの……!」
絞り出すような声は掠れて聞き苦しく、言いたい事は半分も伝わらなかったかもしれない。でも、月島さんは唇を引き結んでいた。彼自身がその問いの答えを知りたいとでも言うように。
「俺は、俺自身は何も与えられない、奪う事しか出来ない人間だ。ただそれでも、俺の世界は俺の為にあると俺は知っている。お前の世界もお前の為にあって、その中でお前は足掻かなければならない。所詮は全て自己満足だ、愛も自己犠牲も、何もかも。ただ、その自己満足の先に誰がいるのかによってそれは呼び名を変えるんじゃないのか」
考えるように沈黙を挟みながら投げ掛けられた言葉は長くて、病床の身にはすぐには理解が追い付かなかった。ただそれでもその言葉はきっと、彼の言う「あの子」が彼に教えてくれたのだろうという事は分かった。私の知らない景色の中で月島さんと知らない誰かが笑っている、そんな光景を一瞬見た気がした。
「兄さんは、私の世界の全て……、これだけは本当なの、月島さんも?」
「そう、だな。『あの子』が俺に与えてくれた全てが、俺の世界だから」
そう締めくくった月島さんは、長く話し過ぎたとでも言わんばかりに再び私の目蓋を覆い落ち着いた低い声で私に囁く。
「眠れ。悪いようにはしない。俺に復讐するためにも、お前は強く生きなければいけない」
低い声は私の鼓膜を刺激して頭の中でゆっくりと私に浸み込んでいくようだった。「復讐」という月島さんの言葉に何かを言おうとしたのだけれども何を言おうとしたのか分からなくなって、迷子になった言葉を探している内に私はいつの間にか眠ってしまったようだった。
次に目を覚ました時月島さんはいなかったけれど、傍らにまだ湯気を立てるお粥が置いてあってその湯気を見ていたら少し涙が滲んでしまって私は慌ててそれを拭った。何に対しての涙かは、よく分からなかった。
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