感情が沸騰したように荒んでいた。怒りと悲しみを交互に繰り返し、そして最終的に行き着いた感情はよく分からなかった。今はただ私の過程の一体どこを変えたら、こんな事にならずに済んだのか、そればかりを考える。月島さんに心を許さなければ良かったのか、それとも兄さんにあんな仕事は断るべきだと言えば良かったのか、それともそもそも夕張なんかに居を構えるべきではなかったのか。
ほぼ軟禁状態の部屋で考える事はそればかりだった。でもおかしいのはどれだけ私の過程を遡って私の選択は全て悪い方向に向かってしまうのだ。まるで私の存在そのものが悪であるとでも言うように何度やってもその想像は変わらなかった。どんな分岐でどんな選択をしても結果は必ず不幸だった。
生まれ落ちた事そのものが、間違いだったとでも言うのだろうか。私という存在の罪を贖うための生。私に強いられたのは、そして私が兄さんに強いたのはそんな、ただの絶望だったのだろうか。
鏡の与えられなかった部屋で(彼らは私が自らを傷付けると思ったのだろう。鏡以外にも多くのものがこの部屋には無かった)私は自分の顔を確認する術も無かったが、きっと酷い顔をしているのだろう。少し視線を移せばお盆に乗った冷めた食事が置かれている。日に二回、月島さんは私に食事を持ってきた。そうするのが当然とでも言うように、彼は食事を運んで、私が手を付けなかった前回の分を下げた。
「いい加減に食わなければ死ぬぞ」
何度目かの無駄な膳の上げ下げが行われた後、月島さんは苛立ったような呆れたような声でそう言った。確かに当分食事を取っていなかった身としては胃が締め付けられるように痛んだし、眩暈も熱が出ていた時より酷くなっていた。でも、この人たちの恩恵に与るなんて死んでも嫌だった。
「その、ほうが……、あなたたちにとっては都合がいいんじゃない……?」
言葉を吐き出すのがこんなに怠くて疲れるなんて考えた事も無かった。起き上がっているのも辛かったけれど、彼の前で弱味を見せたくなかった。でも月島さんはそれもお見通しなのかまたため息を吐いて膳を近くの卓に置くと私に近付いて傍らに膝を突いた。ここに来てもう何度見た光景かとぼうっと思っていると、彼は私の解いた髪をゆっくりと梳いてそれから肩を押した。抵抗しようとしたけれど彼の力の方が明らかに強くて、結局私の身体は敷布に沈む。
「せめて横になれ。食事は食べやすいものを用意させる」
私の顔を無感情に眺めた後、武骨な手は頬をゆっくりと掠めてそれから優しく目蓋を覆った。まだ彼を形容する時に「優しい」という言葉を使ってしまう自分の愚かしさが嫌になる。暗い視界の中、月島さんの低い声が世界にただ一つ広がった。
「今は生きろ。何をしたって生きろ。……俺が拾ってやっても、お前が選択しなければ意味が無い」
「……、自分が、神様にでも、なったつもり……!さぞかし気分がよかったでしょうね。わたしを憐れんで、」
私が何を言っても月島さんには響く事は無いのだろう。暗い視界は暗いままだった。その手が一瞬でも震えたら、そんなありもしない想像を一瞬でもしてしまって彼の掌の下で目を閉じた。本当に暗くなった視界の中で月島さんが口を開く音が聞こえた。
「……あの数週間で、君を憐れんだ事は一度も無い」
「私を、にいさんを、家族をゆがんでいると言ったわ」
「事実を言ったまでだ。俺はむしろ、君を羨んでいた」
「……、え?」
思いもよらない言葉に目を開く。私を羨んでいた、というのはどういう意味なのだろう。私という人間のどこに他人様から羨まれる要素があるというのだろう。
「あの数週間、本当に短い時間だった。君という人間の全てを知る事など到底出来はしない。ただそれでも君には存在するのだと分かった。……自分と同じか、それ以上に大切なひとが、傍に」
それが誰を指しているかなんて言わなくても分かる。暗い視界にも眩しいくらいに兄さんの笑った顔が見えた。会いたい。会ってその存在を、生命を、温もりを感じたい。二人で生きてきた私たちには、今更一人で生きていく術なんて分からない。約束も果たしていないのに。
「……そう、よ。にいさんは私の大切なひと……!兄さんだって同じなの!だから何があったって帰らないといけないのよ!夕張で、にいさんがまってるの……。きっとあなたたちには、ううん、あなたには分かりっこないでしょうね。誰かをたいせつに想う事なんて……」
震える声は涙のせいではなく、私の体力のせいであった。声を出すのでさえ苦しくて、私はほとんど全身全ての力を発声に充てているようなものだった。でもその時、私の視界を覆う手が僅かに震えて、私は自分の体力の事など僅かにどうでも良くなった。
「……分かる、と言ったら?」
押し殺した声は何に対する問いなのか一瞬理解するのが遅れた。そしてその問いが先ほどの私の挑発に対する問いなのだと気付いた時、私には怒りのようで違うような複雑な感情が生まれた。誰かを大切に想う心が月島さんに分かったところでだから何なのだという思いに混ざる、大切な者がいながら私から大切なものを奪うのかという困惑。どんな表情をしていいのか分からなかった。しかし何も言わない私の表情を隠す月島さんの手はゆっくりと離れていった。ずっと目隠しをされていたせいで瞳孔が開いていたのか、辺りがやけに眩しく感じられて目を瞬かせる。
「……俺にも、いた。……いや、いる。伴にと約束した人が」
だからきっと良く見えなかったのだ。瞳孔が開いていたせいで、月島さんの顔は良く見えなかった。だから、彼のそんな傷付いた、迷子のような顔は目の錯覚なのだ。そうでなければ私は、私たちはどうしてお互いに傷付け合わなければならないのだろう。ただ生きているだけなのに。
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