僕らの孤独は溶け合うか

私と兄さんの事を月島さんに話したあの日以来、月島さんは私の部屋を訪れる事は無くなっていた。日に二度の食事も持って来てくれる人は知らない人になってしまっていて、私は月島さんが一体どうなってしまったのか知る術を持たなかった。

そんな日々がまた十数日も続いただろうか、私の許に彼が訪れたのは。

それは私がここに来た日と同じ、雨の降る夜の事だった。体調はもう随分前に回復して立ち上がっても眩暈一つしなかった。それでもこの部屋から出る事は叶わず、私は手持無沙汰に窓の外を眺めていた。降り付ける雨粒が窓ガラスを打って音を奏でるのを聞きながら、私は夕張に思いを馳せていた。兄さんはどうしているのか、本当は気付いている事から目を逸らして。

「なまえ嬢」

不意に障子の向こう側から私の名を呼ぶ声が聞こえてきて、心臓が揺れて肩が跳ねる。こんな夜更けに誰かが訪ねて来るなんて事は無かったから、少しだけ怖かった。それでも障子の向こう側の気配は私の返事を待つ気でいるようだ。動くことは無かった。

「……は、はい、何ですか、」

「少し話を良いかね?君の今後についてだ」

幾分気怠そうなその声は月島さんのものではなかった。でも、私はその声に一度だけ聞き覚えがあった。それは私たちの世界を変えた張本人。

「……どうぞ、」

聞こえるかどうかといった声だったのに、障子の向こうの気配、鶴見さんはすぐに障子を引いた。改めて見ると彼は随分と奇怪な風体のような気がした。私が言える事ではないけれど。障子を閉めた鶴見さんは卓について私にも彼の向かい側に座るように求める。そして私が座ったのを確認して、徐に口を開いた。

「こんな夜更けに失礼。何しろ今しがた決まった事だったのでね」

「……私は、もう夕張には帰れないのでしょう?」

きっとそうなのだと思った。私は兄さんの仕事の内容を知っている。その目的までは知らなくても、兄さんが何をしたのか知っていればそこに目を付ける人間は必ず出てくる。天下の第七師団がそんな人間を放置しておくとは思えなかった。しかし覚悟を決めて項垂れた私の耳に聞こえたのは実に可笑しそうな笑い声だった。

「ふむ、君がそれを望むのならばそれでも構わないが……。てっきり、我々の予想では、君は夕張に帰りたいと願うものかと」

「……え?」

顔を上げた私の目に映ったのは底知れない瞳で笑う鶴見さんだった。わざとらしく顎に手を当てて考え込むような仕草で鶴見さんは言葉を紡ぐ。

「我々の出した結論は『君の自由』だ。つまり君さえ望むのであれば我々はそれを可能な限り聞き届けようという訳だ」

「じゃ、あ……」

「ああ、君は自由だ、全てにおいて」

上辺だけ微笑んだ鶴見さんは「これまでの不自由を謝罪しよう」と言って頭を下げた。そして、それから彼は頭を上げて私を見た。彼は底知れない微笑みで私の底を覗き込むように目を覗く。何を言われるのか分からなくて身構える私に彼は唇を持ち上げて、私の心の底に引っかかっていた事について問う。

「ところで君は、月島軍曹について何か聞いたかね?」

「月島、さん……?いいえ……、」

「なんと、では聞いていないのだね?月島が君の自由を私に進言し続けていた事も、その事で己の立場を危うくした事も」

「……え?それって、どういう、」

「そのままの意味だ。この幾週間か月島軍曹は君の自由を勝ち取るために奔走していた。それこそ己の立場を危うくする程にな」

呆れたように、仕方なさそうに首を振る鶴見さんはため息を吐いて「全て君のためだ。未だ行方不明の君の兄の捜索の手筈も整えろと煩くて仕方が無い」と鬱陶しそうに肩を竦めた。

「……だって、だって、私の事なんて、何も思わないって、俺は正しい事をしたって……!」

声が震えるのを止める事が出来ない。私は何かとんでもない思い違いをしているのではないかと思えていたから。私の思い違いが、あの人を。

「ああ、月島軍曹はそう言って君を煽ったのかね?『復讐』という名目を君の人生に与えて、それを生への活力にさせようとした訳か」

「名目……?」

「私がやった手口とまるきり似ているな。代替の目的を与えて生への仮初の理由にする。そこに真実など必要無い。だが餞別に教えてやろう、君の帰るべき場所を焼くように命じたのは私だ」

薄く微笑んだまま、鶴見さんは立ち上がり大仰に「夜更けに失礼した」と言って消えていった。急に現れた私の幸せを壊していった真実に混乱させられて、残された私はぼんやりと、月島さんの事を想っていた。月島さんの言う嘘と鶴見さんの言う真実、月島さんの教えてくれた彼の過去。月島さんはもしかすると。

「なまえ!」

すぱん、と乱暴に障子が開けられて咄嗟に夜着の合わせを押さえてしまったのは当然と言えば当然であった。別に乱れてもいない着物だったけれど矢張り何となく気にはしてしまうものだから。二人目の訪問者、月島さんもそれに気付いたのか気まずそうに「すまない」と目を逸らした。

「あ、いいえ……、何か……?」

「いや、その、今鶴見中尉とすれ違って……。何か吹き込まれなかったか?」

焦ったような月島さんの顔に私は正直に洗いざらい話した。鶴見さんに教えてもらった事、全て。私の話が進めば進む程に月島さんの顔は険しくなって、そして話し終わった頃にはがっくりと項垂れていた。

「そう、全て聞いたのか」

「私に嘘を吐いたんですね。……どうして、」

「それは……、」

口篭もる月島さんに私は私の仮説を披露した。それはあり得ないようで、口にするとこれ程しっくりくるものはない仮説だった。

「あなたが、私に自分を重ねていたから?あなたと同じように生きる目的を失った私に自分を重ねて、だから、鶴見さんにされた事と同じ事を、私にしたの?」

「…………」

押し黙る月島さんの傍に寄る。私たちの間に存在する卓を行儀悪く乗り越えて、私は月島さんの隣に座った。俯いて唇を引き結ぶ月島さんの手を取った時、彼は私を拒絶することは無かった、受容する事も無かったけれど。

「答えを教えてくれるまで離さない……。教えてください。私に嘘を吐いてまで、私を生かす道を探した訳を」

月島さんは何も答えなかった。唇を引き結んで、私に取られていない方の手を硬く握り締めてただ黙っていた。焦れる私が「私、本気よ。このまま一晩中だって、こうしてるわ」と揺れる声で呟けば、彼は私の迷いに気付いたのだろう。僅かに微笑んだ。微笑んで呟いた。

「……構わない。ずっと、こうしていよう」

その言葉の通り、私たちはずっとそうしていた。窓の外の雨がやんでも、私が灯していた蝋燭の明かりが消えても。

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