それはいつの事だったろう。江渡貝の仕事を監視しながら何となく、傍の剥製でも眺めていた頃だったろうか。ふと騒いでいた江渡貝が静かになった事に気付いて俺が顔を上げた時だった。
「…………、」
江渡貝はぼんやりと窓の外を眺めていた。それはいつも神経質で騒がしい男の横顔には見えないくらいに落ち着いていて、悲しげだった。
「どうした、江渡貝……」
「月島さんは、帰ってしまうんですよね」
「……は?」
唐突な問いは当然の答えしか俺に示さない。俺たちは帰る。江渡貝の仕事が完了すればすぐにでも。そしてそれを江渡貝兄妹も望んでいるのだと、俺は思っていた。だからこそ、江渡貝のその言葉を俺はうっかり受け取り損なってしまった。
「そう、ですよね。あなたは軍人で、鶴見さんの部下だ。ボクのトモダチじゃない……」
「お前何を言っているんだ?」
いよいよ江渡貝の言葉の意味を理解できずに怪訝な表情をしてしまうのは仕方の無い事だろう。しかしその時に俺は漸く、江渡貝の言いたい事の片鱗を掴み取った気がした。江渡貝の視線の先、剥製所の窓の外にいたのはなまえだったのだ。
「……なまえの事で、何か?」
「……っ、相談というか、お願いです」
「俺に聞ける願いは少ないぞ」
江渡貝はぎゅうと痛々しい表情を作った後、それを覆い隠すように微笑んだ。無理した微笑みはすぐにメッキが剥がれる事は分かり切っているのにそれでも江渡貝は笑った。きっといつもそうやってなまえの前でも笑っていたのだろう、そんな想像が頭を過ぎって消えた。
「ねえ、月島さん。もし、出来たら、で良いんです。もし許されるのなら、帰る時になまえを連れて帰って貰えませんか?」
「……、は?」
思いもよらない言葉に目を見開いた俺に江渡貝は眉を寄せて苦笑する。「やっぱり驚きますよね」そう言って彼は再び窓の外を、妹を見つめた。それは愛おしさと慈しみ、それからこの世の全てのあたたかな感情を混ぜ合わせたような、美しい表情だった。
「ボク、なまえに無理を言って外の世界で働かせてるんです。本当はボクの稼ぎで十分食べていけるんですけど。でも、それでもボクはなまえが嫌がっても外に出させるんだ」
「ああ、彼女から聞いている。彼女も少し不満そうだった」
俺の返答に江渡貝は困ったように笑って「そうでしょうね」と返した。それでも、その顔には確固たる意志があった。江渡貝はたとえ誰に何を言われようとも己が正しいのだと信じているようだった。
「でも、ボクは間違ってないって思うんです。だってなまえにはこんな薄暗い家も、ボクみたいな出来損ないの兄も似合わないから。……いつでも良いから、なまえは幸せにならないといけないから」
「それは、」
何と言って良いのか分からず言葉を濁す俺に江渡貝は満面の笑みを見せる。幸せな未来を語るようなその顔は、普通の青年のもののようで一瞬俺は立場を離れて彼と会話しているような気分に錯覚した。
「ボク、この家がおかしいって事はずっと前から分かってました。夕張に来た時からとかじゃなくもっと前、きっと生まれた時から。ボクはもう、こんな身体だから普通の男としての人生は歩めないけど、なまえには女としても、人間としても幸せが沢山待ってると思うんです」
「江渡貝……」
「もしなまえがそういう幸せを欲しいって思った時、この家は必ず重荷になる。だから、ボクはいつか必ずなまえをこの家から追い出します」
寂しそうに微笑んで視線を落とした江渡貝の顔は、どうしてだろう。同性でもましてや双子でもないのになまえにやけにそっくりだった。瓜二つと言っても良い程に似通った兄妹が生きてきた過程はどのようなものだったのだろう。想像は出来なかった。
「外に働きに出させたのはもしかしたら少しでも外の世界に興味を持ってくれないかなあとか、誰か、好いた人でも見付けてくれないかなあって、そんな理由なんです。なまえには秘密ですよ。あの子は絶対にボクとずっと一緒に暮らすんだって言って聞かないから」
くすくすと微笑んだ江渡貝に、俺も苦笑を隠せない。全くなまえなら言いそうな事だからだ。頷いた俺はあの後江渡貝の頼みに何と答えたのだろう。是と答えたのか否と答えたのか。何故か思い出せない。そしてどちらを答えに選んだとしても、結局なまえは俺と共に小樽へ来る羽目になったのだろうか。お互いに相手の幸福を模索した兄妹がたとえ別の道を歩んだとしても共に幸福になる道はなかったのだろうか。
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