後悔の欠片

足下を柔らかな物が擦り抜けたから、見ると猫が擦り寄ってきていた。随分人懐こい猫だ。抱き上げても逃げようとしないどころか逆に擦り寄って来る。

「お前人馴れしているね。誰かの飼い猫かな」

なおん、と鳴く猫をひと撫でしてやる。背後で気配がしたから振り返ったらダービー兄、もとい、ダニエル氏がいた。

「失礼、ナマエ様。それは私の猫だ」

「猫を飼っているの?」

猫は私の手から身軽に飛び降りてダニエル氏の許へ一目散に駆け寄るから相当懐かれているのだろう。ダニエル氏は猫を抱き上げると喉元を撫で上げる。それは嬉しそうに喉を鳴らしているから、きっとそこはその仔の心地良い箇所なのだろう。

「猫は良い。賢く、気紛れで。私の女王様だ」

「良いね。私も動物が好き」

「動物を飼われた事はあるのかね?」

ダニエル氏に抱き上げられた猫がするりとその身体をくねらせて彼の腕から抜ける。柔らかくて暖かな身体が足下をくるくると回る。擦り寄られるのは珍しい。私は、動物には。

「飼ってみたいと思った事はあるけど経験は無い。世話になっていた家は犬を飼っていたよ。賢くて、私は一度暴漢から助けてもらった」

「ほう……。ナマエ様は動物がお好きか。それは良い」

ダニエル氏は元々動物が好きなようだ。私が動物に興味を示している事に好感を持っているようだ。

「猫は好きかね?」

「好きだよ。気紛れで、賢くて、あざとくて、何より可愛い」

「Good!良く分かっていらっしゃる」

ダニエル氏は猫派なのだろう。猫の良い所を挙げると目に見えて嬉しそうだ。猫と言えばと、何の気無しに話を振ってみる。

「ダニエル氏は犬は好きかい?」

「犬、かね?嫌いではないが……」

「私は犬も好きだ。あ、でもディオは犬が嫌いだから話題に出したらダメだ。ディオと動物の話をする時は犬以外だぞ」

「なんと、それは……」

苦笑するダニエル氏に私はつい、口が緩んでしまう。子供の頃の思い出が蘇るのだ。何となく、「あの仔」の事を話したくなってしまった。

「犬には特別な思い出がある。子供の頃、引き取られた家にはダニーという猟犬がいた。義兄の一番の友達で、その命を救った事もあるらしい。私も、助けてもらった」

「先ほど暴漢に襲われたと言っていたが」

「……襲われた理由は良く分からないんだ。義父が知らなくて良いと言ったから。良く分からないけれど襲われて、ナイフで刺されそうになった時、ダニーがその身を顧みず私とそいつの間に入ってくれた」

あの時の温もりを、私はまだ覚えていた。私を守るようにあの男に立ち向かったダニーの温かさを。自分一人でもどうとでも出来ると思ったのに、何故か安堵したのを覚えている。

「とても利口な犬だったのだな。あなたにも懐いていたようだ」

「どうだろう。幼い頃の私はいつも余裕が無くて、動物を可愛がるという発想が無かったんだ。だからダニーが私を庇った時も本当に驚いた」

ディオ以外に、誰が見返りも無く私を庇ってくれるだろうと思っていた。ジョナサンだってジョースター卿だって、私が品行方正な内はきっと庇ってくれるだろうとは知っていた。でも、それは私に価値があったからだ。貧民街の子供に我が子と同じような庇護を与えているというステータスを得る事が出来るという価値が。

「ディオが犬が嫌いと言うから、私もダニーにはあまり近付かなかった。元々それ程身体も強くなかったから、義兄とダニーが遊ぶのを良く遠くから見ていた」

「きっと彼はナマエ様の寂しさに気付いていたのでしょうな」

「…………寂しさ。そう、かもね」

遠くからジョナサンが大きく手を振っていた。私はその手にほんの小さく手を振り返して、陽の光の下で幸せそうに笑う彼を確かに羨ましいと感じたのだろう。

「ダニーとはその後も良い関係を築けたのですか?」

「………………。ダニーは、とても利口だった。こんな私にも優しくて、そして主人に対して忠実で。だがそのせいで、あの仔は死んでしまった」

ダニエル氏は私の話に余計な口を挟まずただ、聞いてくれていた。だからこそ、私はこの話が終わるのが少し怖かった。何故ならこれは罪の告白だ。私は後悔はしていないけれど、その罪科を今も背負っている事は知っていた。そしてそれを正視するのは、少し億劫だった。

「死んだ?」

「そう。あの仔は自分の主人に対する私たちの純粋な悪意に、気付いてしまった。だから僕……、私とディオで殺した」

自然と目が細まるのが自分でも分かる。意識をせねば感情の揺らぎを抑えられなかった。実際に手を下したのはディオだけれど、私はディオの計画に気付いていた。そして、それを見逃した。

「とても苦しかったろうね。生きたまま焼かれたんだから。私はその亡骸をこの目で見たよ。……だから動物は飼わないんだ。私は目的のためならそういう酷い事が出来る人間だと気付いたから」

ダニエル氏の猫を見つめる。目が合うと、まるでそれまでの話を聞いていたかのように猫は私を威嚇した。

「おや、やはり賢い仔だな。私の話を聞いていた」

肩を竦める。私は動物が好きだが、動物には嫌われる事が多い。昔も今も波長が合わないのだろうか。それとも彼らは私が巧妙に隠した私の中の何か邪悪な物を感じ取るのだろうか。

「ナマエ様、」

「こんな感じでさ、動物は好きだが、嫌われるんだ。ダニーを殺したせいだろうね。あなたの飼い猫も、私に近付けない方が良い」

手を振って、猫をダニエル氏の方に追い遣る。彼は困ったように猫を抱き上げると静かに私に近寄った。

「だから寄るなって。猫が可哀想だろ」

「今ナマエ様が威嚇されたのは猫の目を真正面から見つめたからです。ですからほら、こうやって手を差し出して猫から近付くのを待てば……」

猫を抱いているのとは反対側の手で私の手を取って猫の傍に近付けたダニエル氏は片眉を器用に跳ね上げた。

「ほうら。動物相手には自分から行っては駄目だ。来てくれるのを待つのです」

彼の言葉通り、先ほどの様子とは打って変わって猫は私の指先を舐めた。ザラザラとした舌は温かい。その温かさはあの日と同じだった。暴漢を追い払ったダニーが誇らしげに私の頬を舐める舌の温度と。今更感傷が湧き上がるのか口が緩む。

「…………可哀想な事をしたと思うよ、本当に。もっと私に余裕があれば良かった。そうやって『来てくれるのを待つ』ような余裕がさ」

本当にいつだって、そう思っていた。欲を出して親指で猫の頬を撫で擦ったら、今度は指先を加減なく噛まれた。本当に私にはいつだって、余裕が無かった。

ダニエル氏は何も言わなかったけれど噛まれた私の指先に血が滲んでいるのを見ると、猫をゆっくりと床に下ろしてから微笑んだ。

「では弔いに年代物のウイスキーでも如何でしょう。ちょうどスコッチのオールド・ボトルを手に入れたところでして。ダニーの話を聞かせてください。どれほど勇敢で、どれほど忠実だったかを」

「…………良いよ」

「それから不肖の飼い猫がつけた傷の手当てもせねば」

「こんなの平気だ。でも、まあ、何でも良いよ。あなたに任せる。何だか、そういう気分だ」

笑った顔は多分下手くそだったろう。他人を魅了するには程遠い。それなのにダニエル氏はとても恭しく一礼すると私の手を引いて彼に宛てがわれた部屋へ案内してくれた。猫もリードをつけていないのにダニエル氏の後ろをしっかりとついて来た。良く躾けてあるものだ。

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