翌日も、音之進さんは生真面目な顔をして玄関に立っていた。しかし今までと違っていたのは彼が両手を後ろ手にしてとても華やかな良い香りを纏っていた事だった。
「あの、音之進さん……?」
「なまえさん、目を瞑ってくれ」
「は、はあ……」
言われるがままに目蓋を下ろす。暗くなった視界の向こう側で音之進さんが動く音がして、華やかな香りが更に強くなった。
「もういいぞ。目を開けて」
「……まあ、」
目の前にあったのは花束だった。それも音之進さんの両手一杯に余るくらいの大きな。その中には桔梗を中心に黄色や桃色や白色といった色取り取りの花々が纏められている。音之進さんの顔を見れば悪戯が成功した子供のような得意げな表情をしている。
「どうなさったのですか、これ」
「なまえさんに贈ろうと思って誂えて来たのだ」
「まあ、わたくしに?」
驚いた私の声に音之進さんは朗らかに笑って頷く。好青年然とした彼の表情が少し子供っぽくて自然と笑みが零れた。そっと手渡された花束は私の手には当然余ってしまって、音之進さんは少しばかり申し訳なさそうに(「つい、加減を忘れてしまって……。なまえさんに似合うと思った花をありったけ選んできたから」)私の手から花束を受け取り、客間まで運んでくれた。
「お嬢様……、あら、大きな花束」
客間にはちょうど花に水をやっていた女中がいて、私は彼女にお願いして花束の処理をお願いする。女中はにっこりと笑って頷いていそいそと花瓶を探しに客間を出て行った。
「彼女は?」
「以前に話した通いの女中です。しっかり者で、よく働いてくれるので助かっています」
「そうか。……良かった」
「え?」
音之進さんの言葉に少し疑問が湧く。まるであの女中の事を知っているかのような言葉に。
「彼女の事をご存じなのですか?」
「……何の、事だ?」
「だってまるで彼女の事をご存知のような仰りようなんですもの」
「……いや、彼女の事は知らない。……あなたが不自由してないと知って安心しただけだ」
そっと音之進さんの手が差し伸べられて私の頬を撫でていく。硬くてごつごつした掌はそれでも温かくて、誰かの温もりなんて久し振りに感じた私の感情はじわりと溶け出す。音之進さんの表情も心なしか緩んでいる気がする。
「……すまない。不躾な真似を」
「いいえ……。音之進さんを不躾というのなら、わたくしは不身持です」
いまだに触れ合ったままの私たちは見詰め合ったまま言葉を交わす。なんだろう、もうずっと私はこの光景を見た事があるような気がしてならなかった。それでもその既視感を確かな物にする前に音之進さんの手は私から離れていった。
「……失礼した」
「いいえ……」
少し気まずい雰囲気だったけれど、それは先日のように硬い雰囲気というよりもどこか柔らかさを帯びたもので、私は端無くも音之進さんを拒絶する事は無くただ頬を染めて俯くだけであった。
「…………」
「…………」
お互いに無言の時間が続いて何か言おうと口を開く。その瞬間だった。三回ノックの音が聞こえる。扉の向こう側からだった。
「何かしら」
「お嬢様、失礼致します。お花が出来上がりましたよ」
女中のその声に私と音之進さんの間の空気はまるで魔法が解けたように動き出す。
「まあ、ありがとう。見てくださいな、音之進さんが贈ってくださったお花、とっても素敵ですわ」
「本当だな。私も幼少の頃は父に言われて華道を少々嗜んだが……、これ程に美しいのならもっと確りとやっておくのだった」
「あら、素敵。音之進さんのお父様は教養のある方でいらっしゃるのですね」
「そうなのだろうか?確かに幼少期から色々口煩く言われはしたが……」
余り納得のいかないような顔をしていた音之進さんだったが気を取り直したように花瓶に生けられた花をしげしげと眺める。
「それにしても本当に美しいな。久し振りに華道の指南でも受けてみようかという気にさせられる」
「音之進さんはご流派は?」
「当家は、何だったか……。池坊だったかな」
「まあ、わたくしも池坊ですわ。ぜひ今度一緒にお教室に行きませんかしら」
思わぬ共通点に顔が綻ぶ。音之進さんも同じ事を考えているのか穏やかな顔で頷いている。その顔を見ていたら昨日の事が思い出されて、私は悪戯な表情を浮かべる。
「じゃあ、お約束いたしましょう?いつかわたくしとお華のお教室に行くお約束」
そっと小指を差し出してみる。そうすれば音之進さんは少し表情を硬くさせて、それから美しく微笑んだ。でもその顔が少し悲しげだったのは気のせいなのだろうか。
「そうだな。あなたとならば、多少足が痺れるのも構わない」
おどけたようにそう言って私の小指に指を絡める音之進さんは「約束だぞ。指切り拳万だ」と言う。
「まあ、怖い」
私の言葉にふっと、息を吐き出すように穏やかな表情をした音之進さんは時計を確認して徐に立ち上がった。
「そろそろ時間だ。忙しなくて済まないが今日はお暇しよう」
「あ、ええ……。またいらしてください」
「当たり前だ。毎日来ると約束した。明日も来るからな」
音之進さんが帰ってしまうと聞いて僅かに残念だと思ったその感情を上塗りするように昨日の約束を口に出されて、喜びがじわじわと私を襲う。
音之進さんを玄関まで見送って、それから女中にこっそりと、「素敵な殿方ですわね」と囁かれた言葉に顔が熱くなるのを抑える事が出来なかった。
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