陸軍の予備病院に動員された私たちは暫くはそこで負傷して送還された兵士たちの治療に当たっていた訳であるが、その傷は日増しに酷くなっていくようであった。それは即ち戦況が悪化しているという意味で、私たちが銃後から前線へと送られる日も近いという事を表していた。そしてその日が来るのは私が考えていたよりも早く、動員されてから一年も経たぬ頃であった。
(……旅順、)
私たちが次に動員されたのは旅順であった。音に聞く旅順攻囲戦に乃木・児玉両大将が優勢を勝ち得てからまだ日は浅い彼の地ではきっと負傷者も多いだろう。いや、負傷者ならばまだ生きて帰る事の出来る見込みがある。私は本当は恐れていた。この手で誰かを看取る事を。今までは治る見込みのある者しか看て来なかったのだから。
そんな言い知れない恐怖を抱えながら、私は冷たい海風に吹かれつつ旅順へとやって来た。いつの間にか私が正式な日赤の看護婦となってから一年程が経っていた。
旅順に来てからは慌ただしく、先に来ていた先輩看護婦や部隊の衛生兵の指示に従ってそれこそ慣れぬ戦場での治療に右往左往していた。私にとっては幸いな事に私はまだ戦線の後方の方に配属されていた為、瀕死の負傷者の看護に当たる事は無かった。そして漸く年が明けるかと言った頃、多くの犠牲を出した旅順攻囲戦は帝国の勝利で幕を閉じたのだった。
しかし戦争は、時代は私たちを待ってはくれなかった。旅順を攻略した日本軍はそこを拠点としてロシアの拠点、奉天を攻めるというのだ。早速奉天への帯同を「希望」する看護婦が募られた。手を挙げる者は当然の事ながら少なかった。今まで私たちが戦場と謂えど安穏としていられたのは後方部隊だったからだ。奉天は間違いなく激戦地になる。日赤の看護婦だって無事では済まないかも知れない。それを考えれば皆おいそれと志願する事など出来る訳がない。
それでも私の右手は勝手に挙がっていた。怖くて堪らなくて身体はぶるぶると震えていた。でも、私は奉天行きを志願したのだ。それは御国の為とかそんな大層な物ではなかった。私は何故か、そこに行かなければならないという、天啓を受けた気がしたのだ。それは不確かな物ではあったが、私の人生の岐路に私を導く何かであったような気が、その時の私にはした。結局志願して奉天行きを決めたのは私の同級では私とトヨさんだけで、それ以外の同級生は旅順に残る事となったのだった。
従軍に慣れていない私たちに、軍隊の行軍は酷く辛く、足の皮は破れ、余りの痛みから脱落者すら出た。幸いな事に田舎生まれの私は何とか耐えられない事はなかったが矢張り辛いものは辛く、毎日トヨさんとお互いを励まし合いながら配属される幕舎への道のりを辿った。道すがらに横たわる亡骸や砲弾による荒れ地が次第に多くなっている事には私は言及出来なかったし、きっとトヨさんもそうだったに違いない。
そうして私たちは遂に前線の幕舎に配属された。配属されて最初の二、三日は随分と静かで拍子抜けしてしまったのだが、それはただの嵐の前触れのだけであった。四日目の早朝、遠くから聞こえる砲弾の音に跳ね起きて私は遂に始まったのだと理解した。それは私の、そしてここにいる全ての人の戦いの合図なのだと私は初めて気付いた。慌ただしい足音と共に一斉起床のラッパが鳴り、私たちは一斉に寝台を飛び出して衛生服を身に纏った。
次から次へと運ばれる負傷兵の有様は惨憺たる物であった。深い裂傷なら可愛いくらいで、手足が無い者、腸を引き摺る者、最早痛みも麻痺して前線に帰るのだと喚き散らす者、生臭い鼻が可笑しくなりそうな程の血と死の臭いと合わせて正にこの世の地獄だと思った。ふと周りを見渡せば余りの凄惨さに耐え切れず胃の中身を吐き戻している者がいた。それは紛う事無きこの世の地獄だった。
震える手と噛み合わない歯の根を無理矢理見ない振りをしながら、私は上官の指示に従いながら必死に治療を施していく。流血の酷い者には止血を、痛いと泣き喚く者には鎮静剤を、助からないと判断された者を幕舎の隅に避けて新しく患者を運んだ。
見捨てる事にもっと罪悪感を感じると思っていた。少なくとも周りの看護婦のように泣きながら私は負傷兵を治療するのだと。でもそんな事は無かった。私は確かに怖かった。でもそれは目の前で生命が消える恐怖と言うよりも、もっと人間の残酷さに対する恐怖のように思えた。
そんな時だった。
「頼む……!誰かこいつを楽にさせてやってくれないか……!」
それは随分昔に聞いた事のある、懐かしい声だった。もうずっと私の心の奥底に仕舞い込んで封印した筈の。こんな所に、いる筈無いと思っていたのに。
周囲の音が消えた気がした。ゆっくりと振り返って自然と自分の目が見開かれるのを感じた。こんな所で、こんな時に。神様は、世界は、何と残酷で、この世は何と地獄のようなのだろう。
「佐一、兄さん……?」
「……、え、なまえ、ちゃん?」
そこにいたのは佐一兄さんだった。彼が腕に抱き抱えている負傷兵に、酷く嫌な予感がした。まるで地獄に落とされるかのような。
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