その悲しげな顔を、前にも見た

はっ、と目が覚めた。何だろう。とても長い夢を見ていた気がするのに、その片鱗は何も思い出せなかった。まあ、夢に良くありがちな話だと、私は思い出そうとする思考の働きをすぐに放棄する。そうして辺りを見回した。いつもの私の部屋。色取り取りの花が飾られて、「まるで病人の部屋のようだ」と昔誰かに言われたような気がする。私は花が好きで、だからその言葉に。

(……何て、返したんだっけ)

今日は随分物覚えが悪いようだ。でも忘れてしまった物は仕方が無いと私は仕方なく立ち上がって身支度をする。寝間着から外に行けるような服に着替えて、それから毎日変わり映えのしない顔に化粧を施す。四半刻もすればいつもの私が鏡の向こうから見返していた。出掛ける用事も無いのに。

それでも何故だか、今日はちゃんと用意をしていなければならないような気がしたのだ。予感、というのだろうか。誰かが訪ねて来る予感がしたのだ。それは形にならない予感ではあったけれど、私にとってはとても重大な事のような気がして。まあ、もしこの予感が外れたとしても、いつまでも寝間着でいるような女はだらしないだろう。

身支度に一息ついてそれからもう一度部屋を見渡した。沢山の花は整然と並び、赤や青、薄桃色や黄色などで私の目を楽しませる。そういえばこの花たちは。そこまで考えた時だった。

「御免」

玄関で声が聞こえた。ほら、私の予感は当たった。もし早く起きていなくて身支度をしていなかったらとても恥ずかしい事になっていただろう。「はあい」と返事をして玄関に向かえばそこには男の人が立っていた。

「その、突然失礼する。みょうじなまえ、さん」

緊張でもしているのだろうか。誰何する男の人の声は随分と硬く、私の方までその緊張が移ってしまう。それにしてもどうして、私の名前を知っているのだろう。

「ええ、はい。それで、あの、あなたさまは……?」

初対面の相手に名前を聞いた。ただ、それだけの事だった。でも、男の人は一瞬だけ目を見開いて、それから、無理矢理微笑んだような歪んだ笑顔を作った。

「失礼。私は鯉登音之進という。あなたは知らないかもしれないが私とあなたには家同士の繋がりがあるのだ。今日はその挨拶に来たのだ」

「まあ、そうでしたの。何も知らなくてごめんなさい。通いの女中もまだ家に来ていなくて、今家には誰もいないんです。それでも良かったら、どうぞ上がっていらして」

「それでは、少しだけ」

頷いた鯉登さんに私も微笑んで彼を客間に案内する。お茶を用意するから、と言ったのに鯉登さんはすぐにお暇するから、と私の申し出を断った。

「これは、」

客間にも、沢山の花が飾ってあった。私は余りここには入らないので知らなかったが、通いの女中も随分と花好きらしい。そこには私の部屋と同じく色取り取りの花が飾ってあった。

「凄いでしょう。わたくしも家の者も皆花が好きなんですの」

「……そう、なのだろうな」

その声が震えているように聞こえて、私は鯉登さんの顔を仰ぎ見る。でも彼の顔は私よりもずっと高い位置にあってその表情はよく見えなかった。

「それで、今日の御用向きは……」

「ああ、そうだったな。だが今日は本当に挨拶だけなのだ。もしあなたが私を迷惑だと思うのなら、もう来ない。……ただ、もし迷惑でないというのなら、また明日も、ここに来ても構わないか?」

本当に唐突の申し出に目を瞬かせてしまう。鯉登さんとはまだ会って間もない訳であって、彼の願いは嫌というよりも戸惑いしか私に与えなかった。それでも不思議と嫌悪感とかそういったものは湧いて来なくて、私は少し迷ってからそれからゆっくりと頷いた。

「本当か?あ、明日も来るぞ。ほ、本当に来るぞ!良いんだな!?」

しつこいくらいに確認する鯉登さんに私は何度も頷く羽目になる。それから疑問が湧いた。

「あの、鯉登さまは、」

「音之進で良い。私は鯉登家の何者でもないからな」

「え、ええ。じゃあ音之進さんはどうして急にわたくしの事を……?」

その問いに音之進さんは少し言い難そうに唇を噛む。もしかしたら何か訳があるのかも知れない。初めて会った私には話せないような何か重大な訳が。

「い、良いんです。出過ぎた事を聞きました」

「いや、私の方こそ済まない。突然押し掛けた挙句に何も語らないなど……」

微妙な空気が流れて、私は足元に視線を落とす。音之進さんも口を噤んだままだったが、ふ、と小さく息を吐き出して立ち上がる。帰るのか、と思えば彼は客間の花々の方に近寄って、青い桔梗に掬うように触れた。

「綺麗だな。これは何と言う花なんだ?」

「それは桔梗ですよ。わたくしの一番好きな花」

きっと音之進さんにしてみればたまたまだったに違いないが、彼が触れた桔梗は私が一番好きな花であった。微笑んだ音之進さんに私も微笑み返して、先ほどまでの硬い雰囲気が嘘のように私たちの間の空気は柔らかなものになる。

「……今日は、もう帰る。明日もまた来るから」

その言葉に確り「はい」と頷けたのもきっとそのせいだろう。

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