その意味も知らず

戦場を転々としながら、私たちは負傷兵の看護をする。負傷兵の怪我の病状は様々だが、人手も物資も足りない今、兵士たちの命は取捨選択された。怪我の度合いが重篤で且つ治る見込みのある者、或いは将校が優先的に看護されるようになった。今やこの戦場には命の順列が明確にあった。

その中でも看護婦の命の重さは最下層にあったと言えただろう。戦いもせず、出来る事と言ったら微々たる看護。特に長く戦場にいる看護婦の中には余りの戦場の凄惨さに心身を病む者が出始めていた。そして遂に私の周辺にも、身体を病んで倒れる者が出て来た。

トヨさんが倒れた。

夜になって、戦場が落ち着いてから私たちは看護婦たちの臥せている幕舎へと向かう。お世辞にも衛生状態の良いとは言えない幕舎の中、押し込まれるように寝込んでいる看護婦はトヨさん以外にも何名かいた。戦場で傷付いた者は少ない。そういう看護婦はすぐにいなくなる。むしろ酷い衛生状態の中で病を貰う看護婦の方が多かった。

トヨさんの枕元に膝を突いて、はっとした。いつもは薄目を開けて私に何事か声を掛けてくれるトヨさんだったがその夜はただ、静かなままだった。まさか、と呼吸を確認すれば、弱々しくも上下する胸にほっとする。

乾いてしまったトヨさんの額の濡れ手拭いを新しいものに変えていると、トヨさんも辺りが騒がしくなった事に気付いたのか薄らと目を開いた。

「……なまえ、さん?」

「ああ、ごめんなさい。起こしてしまって。気分はどうかしら」

トヨさんは水差しの水を飲む気力も無いのか、それは昨日の夜から減っていなかった。その時幕舎に誰かが入ってきて、看護婦の間を縫うようにして歩いて来る。そしてその人はある看護婦の枕元に膝を突くと彼女の反応を確認し始める。それは私にも分かった。彼女が既に。

「……ねえ、なまえさん」

不意に震えるように小さなトヨさんの声が聞こえて、手が取られた。かさかさに乾燥したその手は病人そのもので、私は震えてしまう。まるでトヨさんもあの看護婦のようになってしまうのではないかと。

「どうしたの、何か欲しい物でもある?」

他の看護婦たちの病状に障らないように声を落として囁くと、トヨさんは首を振った。そして本当に小さな声で零した。死にたくない、と。

「……え、」

「死にたくないの、なまえさん……。生きてもう一度日本に帰りたい。両親に、きょうだいたちにもう一度、一度で良いわ。……あいたい、」

「しっかりして、トヨさん……!あなたは死なないわ、絶対に生きて日本に帰りましょう」

気休めの言葉がこれ程に何の役にも立たないなんて思わなかった。私の言葉にトヨさんは涙をいっぱいに湛えた瞳で静かに頷いた。それでもそれ以上何かを口にする事は出来ないのか、彼女はそれきり黙ってしまった。

トヨさんの身体を清めながら、私は考える。私たちは一体何の為にここに来たのかと。トヨさんは戦場の片隅で誰にも顧みられる事も無くただ、死の恐怖に怯えるためにここに来た訳では無かった筈だ。彼女は崇高な理想を持ってここに。では彼女が今ここに臥せているのは。

「……わたしたち、なんのためにここに来たのかしら」

去り際に、トヨさんがぽつりと呟いたその言葉が、幕舎を離れた後も私の耳にこびり付いて残っていた。何人もの負傷兵を治療しても、どんなに崇高な理想を持っていようとも、病に倒れて使い物にならなくなったらただ死を待つために狭くて薄暗い幕舎に押し込められて。ならば私たちは何の為に。

それから数日がしてトヨさんは死んだ。夜、私が彼女の幕舎に水差しの水を変えようとトヨさんの寝台を離れたほんの僅かの間に、彼女の魂は彼女の身体を離れていった。衛生兵はいつもと変わりなく、彼女の脈や瞳孔の拡散など生体反応を確認して、部下に命じて彼女を連れて行ってしまった。何の例外も無く。まるで彼女も他の看護婦も、或いは見捨てられた負傷兵とさえも変わりないと言わんばかりに。

彼女の、トヨさんのここで生きた証は消えてしまった。

その日の夜はどうにも感情がざわついて、当番の時間が終わっても私はぼんやりと幕舎の外で遠くを見ていた。戦いは未だ続いているらしく、遠くの空に砲弾のはじける赤い色と花火のような音が聞こえた。あの下でまた何人も死んでいるのだと思ったら、余計に分からなかった。こんなに簡単に死んでしまう世界で私たちが一体何の為に生きているのか。

「……なまえちゃん?」

「……!佐一、兄さん……」

後ろから声を掛けられて、肩が跳ねる。そこにいたのは佐一兄さんだった。どうやら彼の部隊は一時撤退したらしい。佐一兄さんの顔は煤けていて、汗と硝煙と血の臭いがした。

「大丈夫ですか……!」

「平気。俺は不死身の杉元だぜ。……隣、座っても良いかい」

見た感じは怪我をしていなさそうだったが慌てて怪我の有無を聞くと、佐一兄さんは得意そうに胸を張った。それから私が頷くのを待って、私の隣に腰を下ろした。近付く距離にまた一段と彼の纏う死の香りが近くなった。

「大丈夫?」

「……どうでしょう」

「何かあったなら、俺に話してみる?」

お互いに切れ切れの会話しか出来なくて、私は膝を抱えたまま少し思い悩む。この思いを話した所で、佐一兄さんを困らせてしまわないだろうかと。それでも、私は誰かに、私以外の誰かに知っていて貰いたかったのかも知れない。トヨさんが生きていたという事。トヨさんの想いを。

「……同僚が、亡くなってしまって」

「……それは、」

何と言って良いか分からない、と言うような佐一兄さんの顔に私も怖気付く。でもトヨさんの顔が浮かんだ。女の身で身を立てて、故郷の家族を楽させてやるんだと息巻いていた彼女の顔が。

「私よりずっと志もあって、ずっと熱意に溢れていた子だったのに。…………死ぬのは彼女のような子じゃなくて、私みたいな、」

「っなまえちゃん!」

取り留めの無いぼんやりとした思考が形になる前に、佐一兄さんの大声が、私の思考を掻き消した。はっとして自分の言葉を反芻してみて、それはあの約束を違える言葉だと思い出した。佐一兄さんの顔も、私が言ってはいけない事を言ってしまったのだと表していた。

「そんな言葉、聞きたくない」

「……ごめんなさい、」

俯いて膝を抱える私の隣に座っている佐一兄さんは空を見上げた。煌々と照らす月が私たちを柔らかな光で包む。それは故郷を棄てた日の月と同じ筈なのに、違うようにも見えた。私たちの上に、誰の上にも平等に降り注ぐ月明かりを見ていると、自然と硬かった口が緩む。

「トヨさんは、意味を見付けられなかったんです。……自分が、何の為にここにいるのか、その意味を。私も、答えてあげられなかった」

佐一兄さんは黙ったまま私の話を聞いていた。それでも構わなかった。私はただ、思い付いたままを口にする。ぽつりぽつりと私の言葉が寂しい空間に溶けて消える。

「ずっと、ここに、ううん、看護婦になった時から考えています。私がそうする意味を。私は何の為にここにいるのか。最初は佐一兄さんの為だと思っていたわ。でも、佐一兄さんがいなくなって、それでも医者の夢を捨てようと思わなかったのは何の意味があるのかって」

佐一兄さんが驚いたように私の横顔を見詰めているような気がした。それでも私はそちらを見る事も出来ず、かと言ってずっと自分の爪先を見ている事も出来ず、耐え切れなくて目を瞑った。佐一兄さんは暫く私の方を見ていたけれど、徐に私の頭を撫でた。

「……佐一兄さん、」

「……なまえちゃんは偉いなあ」

「……え?」

適当に纏めた髪が乱れるのも構わずに佐一兄さんは私の頭を撫で続け、一頻り撫でると少し困ったように笑った。

「俺はもうずっとその日暮らしで、自分の意味なんて考えた事も無かったよ。……そうだよなあ、俺たち、何の為にここにいるんだろうなあ」

冗談めかして、俺は人を殺す為かなあなんて言う佐一兄さんの言葉に項垂れる。笑えない自分の冗談に乾いた笑いを零した佐一兄さんは小さく息を吐くと無理に微笑んだ。

「でも、それは自分で見つけるモンなんだろうな」

そう言う佐一兄さんも生きる意味を探しているのだろうか。だとしたら、早くそれが見つかって欲しいと私は願う。柔らかな月光の中で私たちはただその明かりに身を浸していた。その意味も見出せないままに。

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