ただ一つの生命

世界から音が消えて、私はただ立ち尽くしていた。ただ歪んだ視界だけが私と世界を繋ぐ。それはきっと一瞬の事だったのだろうけれど、私には永遠の時にすら感じられた。突然の再会は私から世界との繋がりを奪ってしまった。

「なまえさん!」

「っ、はい!」

トヨさんの叫ぶような声に私は我に返る。辺りを見回せば負傷兵の数は更に増えていて、あちらこちらで呻き声叫び声、血と煙の臭いが上がっていた。そうだ、私に立ち止まっている暇は無くて、兎に角後から後から運ばれて来る負傷兵を掻き分けながら、私は佐一兄さんに近付いて愕然とした。嫌な予感は的中していた。彼が腕に抱いていたのは。

「寅次、兄さん……?」

それはまだ兄さんと呼べるのだろうか、息があるのかも分からず奪い去るように佐一兄さんの腕から寅次兄さんの身体を預かった時、震えるくらいに兄さんの身体は冷たくて、初めて怖いと思った。人の生命の灯火が消えそうになる事が。

「兄さん!兄さん、聞こえる!?」

兄さんの身体からは止め処無く血が溢れ、最早反応も僅かに見られるかどうかだったが私はただ、目の前の生命の、いや兄さんの生命を救い上げたかった。その為であったら何だって出来ると思った。たとえどんな非道な選択だって。

「兄さん、……兄さん、お願いだから、」

冷たい兄さんの手を強く握った。ずっとあたたかくて力強くて私を引き摺るように歩いて行く手だった。今度は私が兄さんの手を引いて彼を此岸に連れて来ないといけないのに、その手に静かに誰かの手が重なった。佐一兄さんの手だった。

「なまえちゃん……、寅次は、こいつはもう……!」

「違う!まだ、兄さんは……!」

視界がぼやけて、ああ泣いているのだと他人事に思った。この世の地獄を見たって泣かなかったのに。佐一兄さんも泣いていた。私はまだ兄さんの手を握っていて、その身体に投与する鎮静剤のアンプルを探す。その箱に手を伸ばした時だった。空気を裂くような鋭い声が私の許に飛んでくる。

「そこの看護婦!こっちを手伝ってくれ!」

それは配属先の衛生兵の中でも古株で、つまり私の上官に当たる人だった。寡黙な人だったが部下には良く慕われているようで冷静で迅速な処置の出来る人だと専らの評判であった。上官の命令であるから本来ならば私は彼の補佐をしなければならないのであるが、それが意味する所を考えたら私は首を横に振る事しか出来ない。

「私はこの兵士の治療に当たります!」

「無駄だ!その兵士はもう助からん!」

「それはっ……!でもこの人は私のっ」

叫び出したいくらいの衝撃だった。私がここまで打ち消し続けていた可能性を彼は一瞬にして私の目の前に現した。助からない、兄さんが?兄さんが、死んでしまう?こんなに冷たくて誰にも顧みられない所で?そんな筈は、そんな訳は。

「お前は何の為に従軍している!?この場でそいつとこいつ、二人とも殺す為か!?」

「っ……!」

焦れるような声が飛んでくる。何の為?分からない、分からなかった。私は何の為にここに。老医者の顔が、両親の顔が、あの三人の顔が浮かんで消えた。背中をそっと押されて、振り返った。泣きながら、佐一兄さんが私の背をもう一度押した。

「行ってくれ。寅次の手は、俺が握っているから……」

「早くしろ!覚悟も無いままここに来たのか!」

矢継ぎ早に双方に言葉を掛けられて私はもう耐えられなくて、唇をただ噛み締めた。いつの間にか鉄の味がしてしかしそれに気付いた所でどうだって良かった。分かっていた。分かっていた事だった。手を握ったらいつも握り返してくれたのに、もう兄さんは握り返してくれなかった。それはあたたかい手だった筈なのに、酷く冷たくて。

「……ごめん、……兄さん。ごめんなさい……!」

どうして私には何の力も無いのだろう。どうして私には誰もが羨む、誰をも救える力が無かったんだろう。どうして私は力も無いのにこんな所に来たのだろう。どうして。

それは幼い頃から何度も握った手で、何度も離した手だった。でもあたたかかったあの手は酷く冷たくなって、さよならも言えなかった。けれど私がこれまでに見捨てた生命にも同じように家族があったのだと思ったら私が離したこの手もただ一つの生命なのは同じだった。私はそれを知っていた筈なのに、そんな大切な事に喪ってから初めて気付いたのだ。

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