不死身の誓い

全てが終わる頃には、きっと日付が変わっていたと思う。明け方から殆ど飲まず食わずで負傷兵を治療して、漸く最後の一人のぶら下がった左腕を切断する手術が終わった時には、麻酔も鎮静剤も包帯もその他何もかもが無くなっていた。でもそれは私には何も生み出さなかった。虚無を抱えて私はふらふらと幕舎を出て歩いた。向かう先は決まっていた。月光もそれを肯定するように私の歩く先を照らす。その先には、佐一兄さんと、寅次兄さんがいた。

「……なまえちゃん」

「お久しぶりですね、」

再会の挨拶は随分と浮き上がって聞こえた。きっと私の言葉はこの場には似つかわしくなかったに違いない。でも、正視したくなかった。佐一兄さんの手の内できっとさっきよりもずっと冷たくなってしまっている寅次兄さんの手を。

「こんな所で会うなんて、驚きました」

「……うん」

不思議と静かな夜だった。遠くではまだ砲弾の音が聞こえていたけれど、それはまるで季節外れの花火のようで私は一度だけ老医者が連れて行ってくれた隅田川の花火を思い出した。兄さんを挟んで佐一兄さんと向かい合うように腰を落とし、私は傍らの兄さんの手を取ろうとして失敗した。その手は酷く冷たくて硬そうで、その手を取ってしまったら私はもう、認めざるを得ない気がした。兄さんがもう。

「ごめん……。俺、寅次を」

不意に佐一兄さんの声が聞こえた。私は目を逸らしていたけれど、佐一兄さんは向き合うつもりのようだった。それもそうだろう、佐一兄さんはずっと兄さんの手を握っていたのだから気付いているのだ。その生命の重さに。

「謝らないで下さい。……佐一兄さんだけでも、生きてて良かった」

気付いたら私は自然に口に出して認めてしまっていた。寅次兄さんの命がもう喪われてしまっているという事。こんなに簡単に、たった一言で。認めたくなくてまだ兄さんは生きていると言いたくて私は静かに兄さんの手を取った。でもその手は矢張り冷たくて。

「……どうして、」

佐一兄さんがゆっくりと顔を上げる気配がした。それでも口を挟まないでいてくれるのは有難かった。今言葉を遮られてしまったら私はもう二度と、この言葉を発する事が出来なくなるだろうという予感があった。

「どうしてもっと沢山、勉強しなかったんだろうって思います。もっとたくさん勉強して、どんな患者だって治せるようになりたかったのに、」

言葉は静かに溶けていく。大陸の寒い澄んだ空気は私たちの上に降り注ぐ月光を鋭利な刃物のように冷たく鋭くさせる。細く弱く吐いた息も白く色が変わって消えていく。兄さんの身体は氷のように冷たくなっていてぴくりとも動かなかった。もう耐えられなくて立ち上がった。

「持ち場に戻ります。佐一兄さんも、どうか死なないで下さい」

「待ってくれ」

不意に手を取られて、肩が跳ねた。何事も無かったように取り繕って振り返ると、佐一兄さんは懐から何か小さな物を取り出した。それは指だった。首を傾げる私に佐一兄さんは俯いてそれを握り締める。

「寅次のだ。こんな所で供養もクソも無いけど……」

そういうと佐一兄さんはそれに襤褸切れの布を巻き付ける。佐一兄さんの意図を知って、私も適当な木切れを探した。マッチを取り出して、私が地面に組んだ木切れの中のそのたった一本の指に佐一兄さんはマッチの火を落とした。肉の焦げるような嫌な臭いがして最初は消えそうだった火も、佐一兄さんが撫でるように投げ入れた油の様な物を取り込んでそれは大きくなっていく。それはお盆の迎え火、いいや、送り火のようで。私は静かにその煙の行く先を見詰めた。

その煙の先は苦しい事なんて何も無い国なのだと聞いた。それならもう、兄さんは苦しまなくて済むのだと私は悪戯にその煙に指を触れる。揺らいだ煙は枝分かれしてまた一つになってゆっくりと天へと昇って行った。

小さな送り火はすぐに鎮まってしまって、後に残ったのは少しの灰と小さな幾つかの骨片だけだった。まだ隣に兄さんはいたのに、その魂はもういない。私は懐の中から布袋を取り出すとその中に骨片を幾つか入れて佐一兄さんの手に握らせる。熱い骨片は私の手を焼いて爛れさせたけれど、不思議と痛みは感じなかった。佐一兄さんも私の事を制止する事は無く、黙って私のする事を見詰めていた。布を通して仄かに温もりの伝わるそれは兄さんだけの小さな骨壺だった。

「これ、持っていて下さい。きっとお守りになります。兄さんは佐一兄さんの事大好きだったから」

「でも、」

「それで、佐一兄さんが生きて帰ったらお願いします。兄さんの大切な人にこれを届けてあげて下さい。私はもう、戻れないから」

私の故郷の時間は、「あの日」で止まっていた。私は兄さんのそれからも両親のも梅子お姉さんのそれからも何も知らない。佐一兄さんの物だって。私はもう、戻れない。

佐一兄さんは僅かに躊躇っていたみたいだったけれど、結局は私の手から布袋を受け取ってくれた。大事そうに背嚢の奥深くにそれをしまった佐一兄さんは、そっと私の頬を撫でた。飛び散った血や埃や汗できっと汚れていただろう私の髪を梳いて、彼は「死なないでくれ」と小さく零した。

「佐一兄さんも」

「知らないのかい?俺は不死身の杉元って呼ばれてるんだ」

寂しそうに得意げに答えた佐一兄さんの顔に出来た、あの頃には無かった傷跡が私と佐一兄さんとの時間と世界の落差を私に感じさせて、私はただひたすらに目を伏せていた。私は自分が変わったと思っていた。大嫌いだった生まれ故郷を棄てて、私は変わってしまったのだと思っていた。でも、違った。

佐一兄さんを前にして、私は何一つ核心を突く事は出来なかった。怖くて聞く事が出来なかった。彼について、私について、兄さんについて、そして梅子お姉さんについて。

黙ったままの私に佐一兄さんは困ったように笑って「約束しようぜ」と小さく言った。

「約束……?」

「お互い死なない約束。生きて、日本に帰ろう」

顔を上げた私に佐一兄さんは眉を下げて微笑んだ。泣いているようにも、見えた。

「寅次は俺との約束、破りやがったから……、なまえちゃんは約束破るなよ?」

呆れたようにため息を吐く佐一兄さんの声は震えていた。その声の震えに私の喉も絞められたように狭くなった。声が出せなくて、何度も頷く。こんなに辛い思いをするために私たちは生まれて来たのかと思ったら、神様という存在はなんて残酷なんだろうと痛いくらいに感じた。

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