そうして佐一兄さんの出立の日がやって来た。結局私は佐一兄さんの誘いを肯定も否定もせずにここまでやって来てしまった。でももう、言わなければならない。私の答えを。
「佐一兄さん」
荷造りを終えて、それを背負い込んだ佐一兄さんに声を掛ける。あれから何度か佐一兄さんには一緒に来ないかと誘われていたけれど、私は確答をしていなかった。そして今これが最後の機会だと、私も佐一兄さんも分かっていた。
「なまえちゃん、」
期待したような目で私を見詰める佐一兄さんに私は微笑んだ。
「私ね、一緒には行けません」
それはずっと考えていた、私の答えだった。それを聞いて佐一兄さんは僅かに落ち込んだような表情をしたが、それを気付かせないかのように無理に笑った。
「そっか。これからどうするの?」
「私を拾ってくれた病院に戻ろうと思います。お医者の勉強をしようと思うんです。……あの戦場で私は何も出来なくて、それどころか、私は佐一兄さんの事も何一つ……、」
あの時の事を、私は未だ正面から思い出す事が出来ないでいた。きっとこれからも出来ないだろう。助けられなかった生命、零れ落ちた仲間、滅茶苦茶になった私の感情、何もかも元通りにはならない。それでも、あの事が無ければ私は今の私ではいられなかっただろう。だからこそ、私は捨てられない。思い出とも呼べないこの記憶を、私にきっかけをくれたこの記憶を。
「なまえちゃんが気にする事じゃない。それより俺こそ色々ごめんな」
「それこそ佐一兄さんが謝る事じゃないですよ。それにね、証明したいんです」
「証明?」
曖昧な事を言う私に首を傾げる佐一兄さんに微笑む。この顔が、人生で一番綺麗な顔だったら良い。
「回り道ばかりの私の人生で、無駄な事は何一つ無かったんだって証明したい。何も出来なかった私がいるから、今私には夢が出来たんです」
「どんな夢?」
微笑ましそうに目を細める佐一兄さんがどうか幸せでありますように。全ての悪意から守られますように。願いを込めて口を開く。
「世界一のお医者になる事。……世界一の名医になって、義姉さんの目を治さないと」
私の言葉に途端に顔をくしゃくしゃにする佐一兄さんに、私は最後まで彼を笑顔に出来ないのだなあと苦笑する。でもそれで良いのだ。私には出来ない事は他の誰かがやってくれる。それと同じように私にしか出来ない事だってきっとある。
幼い頃、誰もが羨むような何かを持っていたらって、ずっと願ってた。何でも良いから何か一つ、絶対に誰にも負けない素敵な才能があったらって。容姿でも勉強でも、運動でも何でも良かった。それは私が特別じゃないと知っていたから。でも、誰もが羨むような何かなんて本当は必要なかった。私には私にしか出来ないことがあって、それがいつか誰かの優しい未来に繋がるのだと、特別な人から教えて貰ったから。私の未来がいつか、誰かの優しい未来を救えるのだと。
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