生まれた時、私を最初に抱き上げたのは五つ年上の兄さんだと聞いた。兄さんは私を抱き上げて「俺がお前を守ってやるからな」と言ったそうだ。笑えるくらいに遠い昔話。私は勿論兄さんだってそんな事覚えてなんかいやしないんだ。
大きくなった兄さんは、友達を作って外で遊ぶようになった。昔は少し引っ込み思案で妹の私くらいしか遊び相手がいなかったのに。最初は兄さんの遊び相手をさせられなくなって清々していた。兄さんは女の私にチャンバラや戦争ごっこをさせようとしたから。
でも、次第に半分の空間になった部屋が寂しくなった。そして私は、気付いてしまったのだ。この村に私と同年代の子供は一人もいなくて、寧ろ兄さんの世代に三人も同じ年の頃の子供がいる事の方が珍しいのだと。そうなのだ。兄さんは私のために引っ込み思案のフリをして、私と遊んでくれていたのだった。
きっと兄さんは物足りなかっただろう。女の、しかも年下の私では力も知恵も何もかも、足りないのだから。だから、兄さんは私に飽きてしまったんだと思った。私に飽きて、もっと力も知恵もあって素敵な人たちの所へ行ったのだと。
どんな人たちなんだろう、そう思った。毎日楽しそうに泥だらけで帰って来る兄さんの大好きな素敵な人たちはどんな人たちなんだろう。家の手伝いを抜け出して一緒に遊ぶ人たちなのだから、きっと素敵な人に違いない。手伝いも上の空で、私が考える事はそればかりだった。
そして私は出会ったのだ。
佐一兄さんと、梅子お姉さんと。この世の素敵の塊を凝縮したような、綺羅綺羅とした人たちだと思った。都会らしいとか、そういう意味ではなくて、もっと人間として美しくて完成された、特別な人たちなのだとそう思った。
最初はどこかで二人を憎んでいたような気がする。私の世界からたった一人の兄と友達を奪って行った人たちの事を。でも違った。頭の悪い私だって分かる。特別な人たちと特別じゃない人、どっちと一緒にいたいかなんて明白だから。私が選ばれなかった事は当然の帰結で、私はそれを恨んではいけないという事。
私には三人は眩しくて、目が潰れないように俯くしか出来なかった。それが、私の子供時分であった。
***
朝、兄さんを起こすのは私の役割だった。兄さんはもう大人の仲間入りをする年頃なのにいつまで経っても朝が弱かった。反対に私は夜も明けぬ内から目を覚ましてしまうような年寄り染みた子供だった。今日だって、寝穢い兄さんの布団を引っぺがすのは私だ。
「兄さん!寅次兄さん!朝!!」
「ん~……、うるせえ……」
「うるせえ、じゃないわよ!起きて!」
ため息を吐きながら掛け布団を適当に畳み、腰に手を当てた。兄さんはむにゃむにゃと何事か呟いて枕を抱いて夢の中へ。
「寅次兄さん!佐一兄さんに言い付けるよ!それか梅子お姉さん!」
「……うるせえなあ。もう少し寝かせろよ……、」
「あっそ!良いよ、もう佐一兄さんたち来てるし!!」
「!?」
すぱっと兄さんの部屋と廊下に繋がる障子を引く。がばりと咄嗟に起き上がる兄さんだったけどもう遅い。佐一兄さんは兎も角せめて梅子お姉さんには恰好悪い姿を見せたくはなかったけど(身内の恥!!)これ程までに私の手を煩わせるなら少しくらいお灸を据えないと!
「お前なあ、寅次……良い年して妹に起こされないと起きれないとかガキか」
「ふふ、昨日夜更かししたの?」
「おまっ!なまえ、早く言えよ!!」
「はあ!?私今日兄さん起こしに来るの三度目ですけど!?」
ぎゃあぎゃあと馬鹿みたいな兄弟喧嘩を繰り広げる私たちを見ながら笑うのは佐一兄さんと梅子お姉さんだ。どこでそうなったのかは知らないけれど、兄とはいつも一緒で、本当のきょうだいのように育った。遊びも悪戯も勉強も喧嘩だって全部三人は一緒にやって来た。私にはいない、「友達」で「幼馴染」で「仲間」で「想い人」。
知っている。兄さんが梅子お姉さんの事が好きな事。知っている。佐一兄さんも同じ事。それなのに絶妙な均衡を保って壊れない絆が羨ましい。私にはそんな物を築く相手もいなかった。言っても詮無い事なのは分かっていても。
「ほら、兄さん!早く顔洗って支度して!佐一兄さんと梅子お姉さんを待たせない!!」
「うるせー。お前は俺の母ちゃんか」
「誰が言わせてんの!?」
臍を曲げた兄さんの尻を叩いて私は二人に向き直る。ああ、綺麗だなあ。二人で並んでても凄く絵になる……、から。
「ごめんなさい、兄さん、すぐに支度するので」
「良いよ別に。ていうかなまえちゃんも大変だよなあ。寅次は世話が焼けるだろ」
「しっかりしてて本当に偉いわ。私が同じ年の頃はもっとぼんやりしていたもの」
「あはは、梅ちゃんは本当におっとりしてたよなあ」
私には分からない三人の情景の破片が心に突き刺さる。痛い、痛い。痛いけど、特別な人たちに近付いているんだから当然か。特別ではない私がこの人たちに近付くには当たり前の事だが対価が存在する。
「よーっし!待たせたな!佐一!梅子!行くぜ!」
「……、兄さん!ちゃんと顔洗った!?」
当たり前だけど「三人」で彼らは家を出る。私はそれを「しっかり者の妹」として見送って、残りの一日を彼らの事を想像しながらしたくも無い花嫁修業に明け暮れる。良いなあ。羨ましい。私も……。何て、余りに分不相応な望みだろうか。
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