次の日、私は昨日と同じように早く起きて着替え、化粧をして音之進さんの事を待った。待っている間に音之進さんの事をあれやこれやと考える。私の父母は数年前、流行り病の虎列刺病に罹って相次いで亡くなってしまっていたから、家には実質私一人であった。我が家は母の身体が弱かった事もあり、みょうじの血を引いた子供は私一人であったのだ。だから、と言うべきか私は音之進さんの事を露ほども知らなかった。家同士の繋がりがあると言ってもきっとそう頻繁に会う間柄では無かったのだろう。そんな繋がりの薄い女を今になって引っ張り出した意味とは何なのだろう。僅かに不審なものを感じながらも、私はまだ音之進さんの事を完全に疑う気にはなれていなかった。
「御免」
「はあい」
と私が他愛の無い事を考えている内に音之進さんがやって来たようだった。硬い声に彼の生真面目そうな顔を思い出して自然と唇が緩む。絆され易いと言われても仕方なかったかも知れないが、私は音之進さんの事を不審に思う反面、生真面目な殿方とも捉えているようだった。
「お待ちしておりましたわ」
「……!本当か!?」
形式的な挨拶のつもりだったのにやけに仰々しく目を見開く音之進さんの不自然さに首を傾げる。
「ええ、だって昨日お約束していましたもの」
「……あ、……ああ、そう、だったな」
決まり悪そうに俯いて自嘲的な笑みを零す音之進さんに何か違和感を感じながらも、私は彼を誘って客間に足を運んだ。
「いつ見ても迫力のある部屋だな……」
まだ二回しか我が家の応接間を見た事が無い癖にしみじみとした声音で言葉を漏らす音之進さんに私はくすくすと笑って傍にあった花瓶から桔梗の花を一本摘む。青い花びらが形良く花冠を作り上げている。ふわりと香った香りを吸い込んでから、私はそれをくるりと手の内で回して、茎の方を音之進さんに差し出した。
「よければどうぞ」
「……ありがとう。桔梗の花が好きなんだったな」
「ええ。音之進さんは?好きなお花はありまして?」
男の人に花の事を聞くなんて少し意地悪だったかしらと思わないでもなかったけれど、私の予想に反して音之進さんは少し考えて、でもはっきりと「菊や桐は、職業柄見る事もあるな」と言った。
「……職業柄?」
「ああ、言っていなかったな。私は軍人なのだ。菊や桐は徽章に利用されていてな。私も武骨者だからそれくらいでしか花とは触れ合わないのだが……」
「まあ、軍人さんだったのですね。いつも御国のためにありがとうございます。わたくしの亡くなった父も軍人でしたわ」
「ああ。海軍少将である父から聞き及んでいる。先の戦で亡きみょうじ少佐がいかに勇敢に戦われたのかは、海軍にまで伝わったと。それがまさか病に絡め取られるとは全く天も残酷な事をする」
音之進さんの言葉を聞いて私はぼんやりと父の事を思い返してみる。私の父はそれは厳格な性格で、家族とはどこか一線を画していたように思う。だからだろうか、その顔は霞かかったようにぼやけて良く思い出せなかった。私が黙っているのに気付いたのだろう。音之進さんは雰囲気を変えるように「さて」と前置きをして私の顔を真正面から見た。黒灰色の瞳が私を見つめる。どきり、と心臓が音を立てて揺れた。この瞳を、私は知っている気がした。音之進さんとはまだ出会って間もないというのに。だが音之進さんは私の感情の揺れ動きには気付かなかったようだ。彼は微笑んで口を開いた。
「日々、恙無く過ごしているだろうか」
「へ……?」
「何か不自由な事は無いか?何でも良い。何かあれば言ってくれないか」
いきなり何を言い出すのだろう、私が目を瞬かせるのにも気付かないのか、音之進さんは私の境遇に付いてあれこれと心配をしている。余りの必死さに音之進さんが何だか少し可哀想になって私は小さく頷いた。
「……本当に?」
「ええ。通いの女中もいますから、わたくし何も不自由はしておりませんわ」
疑わしげに私の顔を窺う音之進さんに微笑んでもう一度頷けば、彼は少し不満そうに「無理をする必要は無いのに……」と呟いた。
「無理なんてしていません。でも、強いて言うならこの邸に一人ですから寂しいという気持ちはありますけれど」
「……そうなのか?」
「ええ。幾らいい年の娘でもやはり家に誰も居ないというのは心許なくて……」
言っても詮無い事ではあるが、両親はおらず、我が家を訪ねてくれる人もそう多い訳では無い。家の事は何とか私と通いの女中だけで出来てはいるがやはり心細い事はある。それを音之進さんに伝えれば、彼は納得したように頷いて、そして息を吐いた。
「なら、私が……」
「え?」
「私が毎日この邸に来よう」
「音之進さんが?」
呆気に取られる私に音之進さんは優しく微笑んで頷いて、それから自身の髪をさらりと掻き上げた。柔らかく香る石鹸の香りに心臓がまたどきりと音を立てた。
「ああ、私では力不足やも知れないが、これでも軍人で、男だ。荷物運びくらいには役に立つだろう」
「そんな……!軍人さんにそんな事させられませんわ!」
慌てて首を振る私に音之進さんは快活に笑う。
「良いのだ。私が良いと言っているのだから。だから明日も来る、必ずだ」
そっと小指を差し出す音之進さんに私は悩みながらも恐る恐る私のそれを差し出す。小指に絡む温もりに本日三度目の心臓の高鳴りを感じて音之進さんの顔はまともに見る事が出来なかった。
コメント