午前零時、君は忘れた頃かしら

寝台の中、そっと目蓋を押し上げて時計を見た。午後十一時五十五分。日付が変わるまで、あと五分。それを知って感情は沼にでも落ちたかのように重く沈む。また、何も変えられなかった。また、一週間が過ぎてしまう。そして思い直す。次こそは必ず。時間は、待ってはくれないのだから。そうしてまた、目を閉じる。そうすれば自然と「あの日」の記憶が呼び起こされた。

その知らせを聞いたのは、突然だった。私の演習先に父からの電報が届いたのだ。普段厳し過ぎる程に公私の区別を付ける父らしくないと、突然の電報に随分驚いて、そして電報の内容を確認して、その驚きを忘れた。

なまえ嬢事故ニテ負傷

たった一行の電報を握り締めて、私は己の務めをこれ程呪った事は無かった。早く、なまえの許へ。怪我の具合は如何程なのか、痛みに魘されてはいないだろうか。そればかりが頭に浮かび、消えて行った。そうして漸く演習が終わり、私がなまえの許に駆け付けた時、周囲の者の表情と言ったら。

嗚呼、なまえはもう。覚悟くらいは出来ていた。演習先に御父自ら電報を送るくらいなのだから。きっと余程の大怪我だったのだろう。傍に居てやれなくて済まなかったと病室に入ろうとして父に制された。

怪訝な顔をしたであろう私に、父は言ったのだ。なまえは無事であると。頭を強く打っただけで傷一つ負ってはおらぬと。何ということは無い。私は駆け付けるのが遅過ぎたのだ。

……本当に、遅過ぎたのだ。

始まりはなまえが私との小さな約束を忘れた事だった。しっかり者のなまえには珍しいとその話はそこで終わってしまった。それが確かな兆候であったにもかかわらず。

次の異変はその一週間後だった。なまえが華を習っている教室で作法を忘れて粗相をした。落ち込むなまえを私は慰めてやった。だがそれで終わりではなかった。

次の週も、またその次の週も、なまえは週が明ける毎に何かを忘れていった。異変を感じて医者に行った時にはもう遅かったのだ。

それはあの事故の後遺症だった。なまえの記憶は定期的に零れ落ちていき、最後には何も残らなくなる。それが医者の見立てだった。悪い夢かと思った。

診断を告げられたなまえはただ大きな目をいっぱいに見開いて、信じられないという顔でいた。それでも触れ合った手が震えていて、私はその手をぎゅう、と握り締めた、痛いくらいに。

医者からの帰り道、なまえは殊更に明るい笑顔を浮かべて言った。

「わたくしをどうか、御捨て置きください」

大きな目に涙をいっぱい溜めて。私は大きく首を振って彼女を抱き締めた。でもそれは、きっと彼女に己の表情を見られまいとするための、精一杯の足掻きだった気がするのだ。

それからも、私は彼女の許に通った。彼女は何度も同じ事を言ったけれど、私はそんな事など気にも留めていないという風を装った。本当は不安だった。いつか私も彼女に忘れ去られる日が来るのではないかと。彼女の家を訪ねた時に、誰何されるのが怖かった。

それでも彼女の許に通う事は止められず、私は暇を見つけては彼女の許に通い、この現状を打破する方法を人知れず考えた。なまえの方は変わらず、一週間に一度、何かを忘れて、その何かは二度と彼女の中には定着せず、たとえ新しく覚えさせられてもきっかり一週間後には、それは記憶から抜け落ちていた。

怖れていた事が起きたのは、突然で、酷く呆気無かった。

「それで、あの、あなたさまは……?」

玄関先で不思議そうに誰何されて息が詰まった。ああ、もう、彼女の中に、私はいないのだ。そう考えたら、視界が滲んできて、でも男子たるものここで泣くなど。第一彼女はきっと困ってしまうから。

なまえは突然現れた不審な男をいとも容易く信じた。昔から人の良い娘だった、と懐古の笑みが浮かんで消えた。私はここに来て、自らの存在が彼女の中から消えて初めて知ったのだ。かつてのなまえはもう、何処にもいないのだと。なまえの中にかつての私はもう、何処にもいないのだと。

彼女に忘れられてからこれまでに何度、私はなまえと初対面の挨拶を交わしただろう。私は何度彼女に桔梗の花束を贈っただろう。何度、本当の事を言ってしまおうとしただろう。私はなまえに私たちには家同士の繋がりがあると言ったが、あれは偽りと言うほどの物ではなかった。何の事はない、私たちは親同士が約した許婚であったのだから。

いや、たとえ親の約した事であったとしても、私がなまえに惹かれた事に理由など無いのだろう。私は確かになまえに惹かれていた。なまえもまた、私に惹かれていたのではないかと、今になってみて思う。

なまえは活発な明るい娘であった。花が好きで、私はよくなまえのために花束を贈ったものだった。桔梗も、本当はなまえではなく私が好きな花だった。それを知ったなまえが私の後を追って桔梗を好きになったのだ。

私たちは互いに互いを必要としていたように思う。だからこそ、私だけに降り積もる想い出が酷く煩わしかった。いっそ私の記憶も真っ白に、塗り潰されて仕舞えば良いのに、そう、何度思ったか。

それなのになまえに残る微かな記憶の片鱗が私に余計な期待を抱かせるのだ。桔梗の花を好きだと言い、私に花のお礼だと贈り物を返す彼女をもう、何度。自室に帰る度に唇を噛んだ。使い切れない程の羽織紐は皆、なまえから贈られた物だった。

私たちは確かに、深い所で繋がっているのだと感じたかった。

それでも元より父母の亡くなられ、後ろ盾を失っていたなまえにこれ幸いと、鯉登家は私たちの関係を解消した。そしてなまえはせめてもの罪滅ぼしにと、当家から宛てがわれた通いの女中と広い屋敷、二人で暮らしていた。

閉じていた目蓋を押し上げて天井の木目を見つめた。何度こうして眠れない夜を過ごしただろう。何度、なまえの事を想いながら。人は私を悲劇の主人公と言った。だが違うのだ。本当に悲劇なのはなまえだ。なまえの時はゆっくりと零れ落ちて行って、きっとこれからもその喪失は止まらない。そう思えば思う程に、私はなまえが不憫で仕方なかった。この感情も間違っているのかも知れない。ともすれば私は憐憫でなまえの許に通っているのかも知れない、そう思った夜もある。なまえのため、それ以上に私のために彼女を解放すべきなのかもと。事情を知った他家から、私に新しい縁談が舞い込みつつある。世界はなまえを置いて無情に進んでいくのだ。周囲も私に歩き出せと言う。

だがいくら忘れようとしても忘れられなかった。なまえの笑顔、それだけは。

思考を振り切るように起き上がり、もう一度時計を仰ぎ見た。嗚呼、時計の針が十二時を指してしまう。なまえ、もう、お前は私との想い出を一つ忘れた頃だろうか。

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