我、汝を愛す

ふらふらとした足取りで、佐一兄さんは最初私に気付かなかったようで私の前を通り過ぎた。それでも私が何度か声を掛けると漸く私に気付いたのかこちらに顔を向ける。青褪めたその顔は、佐一兄さんの方も何かあったのだという事を窺わせた。

「……戻ろうか」

どちらからともなくそう口にして、私たちは根城にしていた宿へと戻る。言葉は一切無かった。お互いに分かっていた。お互いが受け入れられなかった事を。私たちは結局、はみ出し者のままだった事を。

無言のまま宿に戻って、佐一兄さんと別れ、私はぼんやりとこれからの事を考えていた。佐一兄さんはこれからどうするのだろう。そっと佐一兄さんの部屋の壁に頭を寄せると、僅かに、本当に僅かに嗚咽が聞こえる気がした。私は佐一兄さんにもう二度と傷付いて欲しくなかったのに。

そっと目を閉じて、私はこれからの事を想像した。

***

選択を迫られるのは存外に早かった。宿に閉じこもって二日目の夜に、眉根を下げた弱々しい顔で、佐一兄さんが私の部屋を訪ねて来たのだ。

「ちょっと良いかい?」

「はい。私も佐一兄さんと話したかったから」

困ったように笑ってから私の部屋に入った佐一兄さんは遠慮がちに部屋の中央から少しずれた所に腰を落ち着ける。私もその対面に腰を落として、そして思い切って佐一兄さんの顔を真正面から見た。初めて。

傷のある顔はでも威圧感なんて私には欠片も感じられなかった。いつも優しく歪んでいた目は今は少し苦しげに細められていて、いつまで経っても私にはその苦しみは癒せないのだと少し悲しかった。

佐一兄さんは押し黙ったままきっかけを掴もうとしていた。私はそれを待った、ひたすらに。急かす事など必要なかった。時間はたっぷりあって、私たちにはこの時間が必要なのだと知っていたから。

「……俺、」

不意に佐一兄さんが口を開いた時、その声は震えていたような気がした。佐一兄さんの根幹を揺らがせた何かが、あの日あったのは明らかだった。そしてそれが「彼女」にかかわる事だという事も。

「……俺、梅ちゃんに分かって貰えなかった。梅ちゃんの世界に、俺はもういない」

何と言って良いのか分からなくて、私は頷きを返す事しか出来ない。そんな事無いって言いたかったけれど、軽々しくその言葉を口にしたって佐一兄さんが余計傷付くだけのような気がして、怖かったのだ。

「梅ちゃんさ、目を悪くしてるんだ。治すにはかなりの額の金がいる」

ぽつりぽつりと佐一兄さんは言葉を零していく。でもその言葉の中にいるのは分かってはいたけれど梅子お姉さんだけだった。本当に、分かっていたのに傷ついて、私は馬鹿だ。

「俺は、北海道に行こうと思う。梅ちゃんの世界の俺を取り戻しに」

「……北海道?」

「砂金で一山当てて、金を作って梅ちゃんの目を治す。……俺にはもう、それくらいしか出来ないから」

待って、待ってよ、また置いて行くの。……行かないで。

想いは一つも声にならないで私は俯いて唇を噛み締めるままだった。ぎゅう、と握った手が痛い。喉が焼けるように熱くて、視界が滲む。でも泣いているとだけは悟られたくなくて私は目を見開いてその衝動に耐える。

「……なまえちゃん、ついて来るかい」

はっと顔を上げた。真剣な顔の佐一兄さんがそこにいた。意思の強い瞳。さっきの弱々しさが嘘のように佐一兄さんは私を見ていた。どうして、

「どうして、佐一兄さんはそんなに強くいられるの……」

「……なまえちゃん?」

「拒絶されたのに、どうして……っ」

私には無理な気がした。実の父母に死んだものとして扱われ、そこから這い上がる気力なんてもう残っていない。きっと私はいつか、彼らに認められるために生きて来たのだと、心の片隅で思った。

「俺に出来る事があるなら、俺は足掻きたいんだ。……梅ちゃんの事、愛しているから」

「……愛?」

ああ、なんて美しい感情なのだろう。私の入り込む隙間など一分の余地も無く、それでいてそれは私が最も聞きたい言葉であった。その事に気付いた時、静かに頷く佐一兄さんの優しい顔が二重にぶれた。気が付けば私は佐一兄さんの腕の中で泣いていた。佐一兄さんも多分泣いていたと思う。私たちは愛していただけだった。互いに大切なものを。

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