私が初めて母に逆らった事は、彼女に余程の衝撃をもたらしたらしい。私は暫く外出禁止を言い渡されてしまった。でもそれに反発するだけの気力は無かった。父の言う「選ばれなかった子供」、その言葉は私から反抗の牙を奪い、立ち上がる度胸を失わせた。
何も言わずお沙汰を受け入れた私に母は満足そうな顔をして、私に再び花嫁修業を強いた。十五にもなろうという私にはもうそろそろ縁談が来てもおかしくはなかったのだ。針に掃除に料理にと私はそれこそ何かを忘れるかのようにそれらに没頭した。それを兄さんは物言いたげに見ていたが、結局何も言わずため息を吐いてその場を離れていった。
そんな日々が十日も続いた頃だったろうか、村が俄かに騒がしくなったのは。それは満月が雲に覆い隠された夜半の事だった。村に火の手が上がったのだ。佐一兄さんの家の方だった。
自室の窓からぼんやりと佐一兄さんの家の方を見ていた私はいち早く異変に気付いた。火の勢いは強いようで暗い夜空がそこばかり赤く染まっていた。嫌な予感がして弾かれたように部屋を飛び出した私に気付いた母が何事か叫んで私を制止するのを振り切って私は家を飛び出し、佐一兄さんの家の方角へと走った。何かの間違いであって欲しい、私の中の嫌な予感を打ち消しながら。
でもそれは、私の予感は的中した。私が佐一兄さんの家の前に辿り着いた時、そこには沢山の人がいた。皆燃え盛る炎を消そうと上を下への大騒ぎで、その中には佐一兄さんの安否を確かめようとする者もいた。でも、私は何となく、分かってしまったのだ。
群衆の中に彼女がいた。悲痛な顔で泣き崩れている梅子お姉さんが。その顔を見たら、私は気付いてしまったのだ。彼女は連れて行って貰えなかった事。そして私が、さよならすらも言って貰えなかったのだと。私は追い詰められた佐一兄さんの意識の片隅にも上らなかったのだ。
大層な目標を語ったところで結局私は、三人目でしかなかった。自分を主役だと勘違いして必死に舞台上を立ち回って、全てが終わって振り返ったら観客が拍手を送っているのは別の演者なのだ。何と滑稽な。
本当はあの日、あの木陰で佐一兄さんに私の「目標」を打ち明けた時、少しくらいは、なんて思っていた。少しくらい、佐一兄さんに見て貰えるんじゃないかって、好きになって貰いたいとか、そんなんじゃなくてただ。ただ、私を「なまえ」として見て貰いたかった。
消火活動をぼんやりと眺めながら私は違和感を感じて掌を開いてみた。その手には血が滲んでいて、いつの間にか切れた雲の隙間から差し込む月光に照らされて鈍く輝いていた。まるで佐一兄さんの家を舐め尽くすように燃え盛る炎のようなその朱を見ていたら、湧き上がるのは悲しみでも虚しさでもなかった。
それは怒りだった。この世の全てに対する怒りだった。何故選ばれなかったのか。何故私では駄目なのか。何故、生まれたのか。
その怒りが私に何を成したのか、気付いたら家の前にいた。家はもぬけの殻であった。当然だろう、まだ佐一兄さんの家は燃え盛っていてきっと父や兄さんはその消火活動を手伝っているに違いないのだから。母はどうか知らないが、少なくともここにはいないようであった。それならば丁度良い。どうやら運命は、私の選択を肯定しているようであった。
出て行こう、唐突にそう思った。佐一兄さんに影響された訳では無く、ここは私の居場所ではないと、私は天啓とも呼べる確信を得たのだ。たとえそれでどこの街の片隅で野垂れ死にしようともそれはそれで構わなかった。これ以上この村で燻っているよりかはずっと。
暗い家に上がり込んで自室に向かう。灯りを点ける間も惜しくて、月明かりの中で私は荷物を纏めた。要る物も必要最小限、殆どは残して行く事に決めた。想い出なんて、私には必要ない。
家を出ても振り返る事はしなかった。郷愁を振り切るためじゃない。振り返る事すらしたくなかった。たとえ誰に見られていなくたって、郷愁があるような素振りをする事は耐えられなかった。
本当は、こんな村大嫌いだった。いつも兄の添え物のように扱われて、母の良い様にされて、家の良い様に扱われて。夢を語ってもこんな村では叶えようも無くて。
でも、本当は知っていた事だった。何者でもない私は、三人目にしかなれない事。私が本当に嫌いだったのは、あれこれ理由を付けてそんな自分を擁護しようとする自分自身だったという事。
それなら、それならば。もう二度と。
私は誰にも心を許すまい。私は独りで生きていく。そうしたら、きっともう誰にも何にも期待しなくて済む。自分で自分に夢を見なくて済む。手の届かない希望に手を伸ばさなくて済む。大好きな人たちを、大嫌いにならなくて済む。
最初から、独りでいた方が。
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