トヨさんが亡くなっても戦場はいつもと何ら変わりなかった。ここでは誰が死んでしまおうとも何一つ変わらない。それは私だって同じなのだ。誰もが特別なんていうのは幻想で、限られた者だけが生きる事を許される。私はもう、その事に気付いていた。
物資が少なくなってくると、看護する相手は必然的に将校が多くなった。それは彼らが「選ばれた」命だからだ。当然のように一般兵の治療は後に回され、中にはそのせいで手遅れになった者も少なからずいた。
私はそれに何も思わない。この世には「選ばれた者」と「選ばれなかった者」がいる。その事は私が生まれた時から知っている事であった。ただ、「選ばれた者」全てに選ばれるだけの資質があるかどうかは、はっきりと言って首を傾げざるを得なかった。
将校の多くは一般兵やそれに近い私たちにも敬意をもって接した。だがそうでない者も中には存在する。例えば相手が私たちのような女だと分かると途端に横柄な態度に出る者といった様な。私たちは彼らのように銃弾飛び交う中で戦う事は無いけれど、ここで戦っているのだと、言い返したくても言葉は出なかった。
それは私が確かに前線に出た事が無いせいで感じている引け目もあったが、もう一つは私の意気地の無さのせいだった。彼らは私の直属の上官ではなかったが、そのもっと上の上官である事には変わらない。上官に反抗する事は抗命罪として厳しく罰せられる。私は軍人ではなかったが、軍属であるという点では扱いは変わらないだろう。
自分の下らない矜持や主義主張で周りに迷惑を掛けることは出来なかったし、何よりここまで来てそんな下らない事で医者の道を断たれるのは何としても避けたかった。だから何を言われたって我慢しないといけないのだ。
頭の上を怒鳴り声が通り過ぎて行く。さっきから私が治療しているこの将校は痛いだの何だのと大きな声で喚き立てていた。傷の大きさから言うと確かに痛くない事は無いだろうが、骨も折れておらず、傷と言えば上皮の擦過傷のちょっと酷いくらいと言えば良いのだろうか。その主張は次第に私の方へと向けられる。
「貴様!もっと丁寧にやらんか!」
「も、申し訳ありません……」
背後では半分千切れた足からの止まらない出血を止めようと仲間たちが必死になって治療しているのに。この人の手当てだって確かに大切だけれど、人手も足りていないのに。噛み締めた奥歯が嫌な軋み方をするのを感じながら、私は出来るだけ丁寧に、出来るだけ素早く、彼の手当てをしていく。
不意に顎を掴まれて顔を無理矢理持ち上げられた。目の前にあるのは脂ぎってニヤついた中年男の顔だった。驚いて引こうとした顔を更に近付けられる。生臭い口臭が鼻を衝いた。
「貴様よく見れば小綺麗な顔をしているじゃないか」
「は……?」
「今夜儂の幕舎に来い」
囁かれるような言葉に身体が震えた。今までだって、そういう事を匂わすような言葉が無かった訳じゃない。それでもそれは周囲との連携で上手く躱してきた。相手が一般兵だったこともある。でも、これは上官の言葉で、もし断れば。誰かがこの無体を聞いてはいないかと、咄嗟に周囲に視線を走らせるけれど、生憎と皆負傷兵の治療に当たっていて誰もこちらには気付いていないようであった。
私が良いとも良くないとも言う前から男は私の沈黙を肯定と捉えたのかにんまりと嫌な顔で笑ってまた私に囁いた。逆らえば、抗命罪だと。
「っ、」
「ではな。待っているぞ」
にやにやと汚い顔で笑いながら男は離れていった。その後も私は他の看護婦や衛生兵と協力しながら負傷兵の治療に当たったが、思考はともすればあの男の事ばかりで占められていた。怖くて誰かに打ち明けたくて堪らなくて、でも誰にも言い出せない内に夜が来てしまった。私の当番の終わりも。
「お疲れ様、何処かに行くの?」
「っええ……、少し、」
同じように当番を終えた看護婦に声を掛けられて、これが最後の機会だと思って助けを求めたかったのに出来なかった。衛生服を脱いで私は兎に角外に出た。そして震えた。だって外にはあの男が待ち構えていたのだ。途端に恐怖に襲われて腰が引ける私の手を男の毛むくじゃらの手が無遠慮に掴んだ。
「行くぞ」
「っや……!」
抵抗したいのと抗命罪の文字とが頭の中で鬩ぎ合ってどうにも中途半端な抵抗しか出来ないのを良い事に私はずるずると引き摺られる。ああ、もう誰も助けてくれはしないのかと、目の前が真っ暗になった時だった。
「なまえ、ちゃん……?」
聞きたくて聞きたくないような、そんな声だった。「彼」なら絶対に私を助けてくれるという思いと、「彼」にだけはこの状況を見られたくなかったという思いとが瞬時に湧き上がって消えていった。そこにいたのは佐一兄さんだった。多分兄さんを亡くしたばかりの私を気遣ってくれているのか、佐一兄さんはあれ以来良く私の許を訪れてくれていた。
佐一兄さんは今の私の状況を上手く判別できないのか訝しそうな顔で私と男を見比べていた。男が焦れたように私の手を引いた。
「行くぞ」
「……嫌っ、」
つい出てしまった私の僅かな抵抗に、佐一兄さんは剣呑な表情をする。それは私が見た事も無い鋭くて獰猛な獣の様な顔で思わず背筋が粟立つ。男もその表情の孕む危険を感じたらしい。肩を怒らして己の権威を誇示するように佐一兄さんの前に立ちはだかった。
「何だ貴様は。用が無いならさっさと行け」
「……俺はその子に用があるんですよ」
押し殺したような佐一兄さんの声には見え隠れする狂暴さがあった。顔を強張らせる私には気付かないのか男は無理に大物ぶったように硬い声を出した。
「この娘はこれから儂の相手をする事になっとるんだ。……そうだな、貴様にもお零れくらいはやっても構わん……ぐっ!?」
あ、と思った時には私の腕は解放されて男は地面にひっくり返っていた。事情を把握したのだろう佐一兄さんがやったのだと気付くよりも先に彼は男に馬乗りになって更なる追撃を与える。はっと気づいて佐一兄さんの腕を抑えようとしたけれど、彼は止まらなかった。
「佐一兄さん、止めて!」
「止めるな!!こいつ、ぶっ殺してやる!!」
結局私だけでは止められなくて、騒ぎを聞きつけた他の兵士たちに取り押さえられるまで、私はただ凍り付いたように彼の暴行を見ている事しか出来なかった。私のせいで佐一兄さんが、そう思うと矢張り私は生まれて来なければ良かったのだと、事情聴取の為に連行される時ずっと考えていた。
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