約束

漸く帰り着いた祖国の地であったけれど、一歩踏み締めた大地は揺れていた。それは長い間船に揺られていたせいもあったし、或いは私の立場が不安定であったせいでもあるだろう。どこかで私は、もうあの老医者の許には帰れないだろうという予感があった。己の本分も果たせずにおめおめと顔を見せる事など出来そうも無かった。私はまた、帰る場所を失った。

「なまえちゃん、これからどうするつもりなんだい?」

帰還を喜び合う兵士や負傷兵の病院送致を横目に、離れていく軍船を眩しそうに眺めていた佐一兄さんに突然問われて私は答えに詰まった。どうしたら良いのか、もう、分からなかった。でもそれを佐一兄さんに言う気は無かった。言えばまた佐一兄さんを落ち込ませる気がしたから。佐一兄さんには、笑っていて欲しかった。

「……分からない、です。あんなに時間があったのに、何も考えられなくて」

「……そう、だよな。ごめん、」

眉を寄せて困ったように笑う佐一兄さんにああ、返答を間違えたなあとぼんやり思った。私では、佐一兄さんを太陽のように笑わせる事は不可能なのだろうか。……梅子お姉さんみたいに。

「なあ、なまえちゃん」

不意に押し殺したような佐一兄さんの声が聞こえた。その顔は酷く真剣で、でも酷く悩んでいるように見えた。言い難い事を言う直前の様な顔に私も自然と身構える。佐一兄さんは迷うように口を何度か閉じたり開いたりして、そして意を決して私を見た。

「…………村に、帰る気は無いかい」

「……え?」

それは予想もしない言葉だった。村、勿論あの村の事を、私や佐一兄さんの生まれ故郷の事を指しているのだろう。私はもう二度と帰らないつもりでいた。だって何も言わずに家を棄てた娘を、あの両親が、村が赦しているとはどうしても思えない。きっと私は家の恥晒しとしていなかった事にされているのだろうと。

「……どうして、ですか」

辛うじて発する事が出来たのはただの時間稼ぎの言葉だった。きっと佐一兄さんはもう決めてしまっている事は分かっていた。村に帰るという彼の決意は固いという事。そして私も、このままではいけないのだと、どこかでは分かっていた。でも、だからと言ってすぐに頷ける事ではなかった。

「……俺は寅次を梅ちゃんの許に返してやらないと。それに、なまえちゃんも分かってるだろ。このままじゃ駄目だって」

力強い瞳が私を射抜き、私の感情を射抜いた。ああ、佐一兄さんはどれだけ時が経っても何があったって変わらないのだ。決して立ち止まらず私の先を歩くけれど、私が立ち止まりそうな時には振り返ってくれる。そんな彼が私は好きで、大切にしたいと思う。

「……きっと、私は拒絶されます。……向き合うのが、怖いんです」

「でも、今のまま心にしこりを残したままで胸を張って前を見れるかい?自分に向き直った時、自分を誇れるかい?」

佐一兄さんは俯く私の肩に手を置いた。撫でるような手つきは心にあたたかい感情を生み出す。それは勇気のようで違うようで、前を向いて歩こうという気分にさせてくれる、そんな感情だった。

「なまえちゃん自身が確かめるんだ。拒絶されたらその時一緒に考えようぜ。俺が傍にいる」

どきりと心臓が高鳴る。まるで好いた人にでも与えられるかのような言葉は私の胸の内を羽毛で撫でていくように擽る。佐一兄さんは変わらない。優しくて、優し過ぎる。

「……佐一兄さんが、一緒にいてくれるなら。……少しは怖くない、です」

「そっか。じゃあ、次の約束、しようぜ」

「約束?」

不意に目の前に突き出された小指に目を瞬かせる。佐一兄さんは子供のように笑うと私の手を取って無理矢理、しかし優しく小指と小指を絡めた。

「そう、俺たちがちゃんと過去を乗り越えられるように」

優しい微笑みと共に指切り歌が小さく歌われる。途中からは私も小さく歌ったささやかな旋律は最後に佐一兄さんが僅かに弾むように言った「指切った」の言葉で幕を閉じた。お互いに微笑み合って静かに解かれた小指にはまだ、温もりが残っているような気がして私はその小指に親指でそっと触れた。

「そうと決まったら、早速準備しないとな。ああ、でもやっぱり少し怖いな。でも、約束、したもんな」

にっかりと笑う佐一兄さんの笑顔は太陽みたいだった。まるで寅次兄さんと梅子お姉さんと一緒にいる時の佐一兄さんみたいで、私はその笑顔がずっと見たくて、そして、生きている事を初めて肯定されたような、そんな気がした。

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