約束を交わした、また逢おうよ

朝起きて、鏡を見るのがここ最近の日課だった。別に何度見たっていつもの、変わり映えのしない顔なのに、見てしまうのだ。お化粧は崩れてないかしら、変な跡などついてはいないかしらと。それもこれも全部、音之進さんに出会ってからだった。

昨日、音之進さんは私に少しでも恰好良く見られたいと言っていた。でもそれは私だって同じだった。私だって音之進さんに少しでも可愛いと思って貰いたい。それがこの行動に繋がってしまうのだ。我ながら、自意識過剰だとは思うけれど。

何度見ても変わらない(寧ろ変わった方が怖い)自分の顔を見詰めて、私は静かにため息を吐いた。早く音之進さんに会いたい。出会ってからたった一週間足らずしか経っていないというのに、私は本当に端無い女になってしまったのだなあとぼんやり思った。もういい歳なのに婦人の嗜みも忘れてしまった私を母は生きていたらきっと叱っただろう。でもこの想いは矢張りどうにも止める事が出来なかった。

「御免」

「……!はあい」

待ち侘びていた音之進さんの来訪に、その声だけで心が浮き立つのが分かる。きっと彼は堅物な顔をして窮屈そうに玄関に立っているのだろう。その姿を想像して顔が緩むのを抑えられなかった。

「お待ちしていましたわ」

「……うん、」

でも私の予想は外れていた。音之進さんは随分と気落ちした表情で少し俯きがちに立っていたのだ。

「……どうされたのですか?」

「うん?……いや、何でもない」

あれだけ膨らんでいた気持ちが萎んでいくのが手に取るように感じられた。私には言えない事なんて音之進さんには当然あるのは分かっていたのに、それでもそれを目の前に突き付けられるとその衝撃は大きかった。玄関先で二人して暗い表情をしている私たちに気付いたのか、音之進さんは気分を変えるように妙に明るい声を出した。

「何でも無いのだ!ちょっと、落ち込むことがあっただけで、なまえさんが気にする事は無い。……私が、折り合いを付ければそれで、」

言いながら少しずつ調子を落としていく声音に彼の抱えている物の大きさを知る。同時に、私では彼を癒せないのだという事も。

「辛い時に、無理はしないで下さいな。……音之進さんは笑っている顔が似合います」

「…………うん」

「玄関先で立ち話もなんですから、お上がりになって。温かいお茶を飲めば少しは落ち着くかも」

いつもは花開く会話も無く、私たちは客間へ向かう。飾られた花だけは色取り取りで、その色々は私たちの間の雰囲気の硬さを浮き彫りにするだけだった。

「…………」

「…………」

向かい合って座る私たちに言葉は無く、重い沈黙が続く。それでも私は音之進さんに何と声を掛けて良いのか分からず、ただ黙って彼が口を開くのを待っていた。そしてその時は存外呆気無く訪れた。

「なまえさん、」

「はい」

「少し想像して欲しいのだ。もし、」

「ええ」

「もし、なまえさんの一番大切な人が少しずつ消えて行ってしまったら、なまえさんはどうする?」

「……は?」

消えて行く?消えてしまったらではなくて?

それでもそんな疑問は挟めない程、音之進さんの顔は真剣で、私は少ない情報を手掛かりに彼に渡す答えを探した。一番大切な人、今の私にとっては音之進さんだろうか。その人が消えて行く……。

「……、そう、ですわね」

「……うん」

「最後のひとかけらまで、愛する、かしら」

「……、」

それは自然と出てきた言葉だった。もし音之進さんが少しずつその存在を消して行ってしまうのならばせめて、私に許される限り、彼を愛したいと思う。もう、迷う事など無かった。出会った時も、過ごした時間も関係ない。私は音之進さんを慕っているのだと、彼の問いに答えて気付いた。

音之進さんは目を瞬かせていたが、唇を噛み締めてまるで泣くのを我慢するように顔を歪めた。それから、身を乗り出して、私の手首を掴んで引いた。

「きゃ、」

間に何も無かった私たちの身体は簡単に触れ合って、気付けば私は音之進さんの腕の中にいた。私より高い体温が私を覆うけれど、不思議と不快では無くて、でもそれよりも何故だか悲しみの方が勝った。遠い昔に置き忘れて来た感情を掘り起こされているような。

「……なまえさん」

唐突な行動にどんな意味があるのかは分からなかったが、音之進さんはこの行動を意図してやっているようだった。彼の声には意思が宿っていて、私は彼の次の言葉を待ち受けた。どきどきと、心臓が耳許で高鳴る。

「約束、しないか」

「……約束?」

「うん。約束だ。明日も、明後日も、明々後日も、その先も、時間が許す限り共に時を過ごそう。どれだけ短い時間でも、私はなまえさんに逢いに来る。だからなまえさんもこの約束を忘れないでくれ」

「……音之進さん、?」

「どうか、何も言わずに頷いてくれ。頷くだけで良いんだ。約束だ。『明日も、逢いに来る』」

どうしてだろう。音之進さんの言葉に、私は頷きたいのに、何故だか頷いてしまっては余計に彼を傷付けるだけなのではないかと思ってしまった。それでも音之進さんは急かすように私の顔を覗き込むから、私は渋々頷いた。嬉しい筈なのに、不安の方が勝ってしまって、それは結局彼が帰ってしまうまで続いた。

名残惜しそうに振り返りながら帰っていく音之進さんの背中を見ながら、私は何故だか泣きたい気持ちで一杯だった。何か大切な事を、彼に伝え忘れた気がして。

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