結ばれた果実

そして、そして遂に、私は五年以上も帰っていなかった私の生まれた村へと帰ってきた。佐一兄さんと、もう一度前に進むために。懐かしさと真新しさの混在した風景を横目に、私は未だにはっきりと覚えている私の原点たる実家へと重い歩を進めていた。

「…………」

佐一兄さんも緊張しているのか私たちの間には重い沈黙が落ちる。佐一兄さんの話では梅子お姉さんは兄さんの許に嫁いだとの事だから必然的に私たちの目的地は同じであった。それでも私は少し怖かった。私が拒絶される事が。佐一兄さんが拒絶される事が。

「……佐一兄さん」

「……?どうした、なまえちゃん」

その考えを思い切って口にしようとした時、佐一兄さんは私の少し前を歩いていたから、彼を呼び止めて佐一兄さんが振り返るまでその表情は分からなかった。その表情が硬く強張っていたら良かったのに、それなのに、佐一兄さんの顔はあまり緊張しているようには見えなかった。尤も、その内心の程までは分からないけれど。

「私やっぱり後で行きます。いきなり兄さんの骨と佐一兄さんと私が帰ったら、梅子お姉さんも両親も驚くと思うから」

「……なまえちゃん、それは、」

「大丈夫!ちゃんと行きます!だから、佐一兄さん先に行っててください。私は少ししてから挨拶に行きます。絶対、行くから」

佐一兄さんは私の真意を測り兼ねていたようだったけれど、それでも私の決意が固いと見たのか渋々頷いてまた私の家へと歩を進めていった。その背中が見えなくなるまで私は佐一兄さんを見送ってそして小さくため息を吐いた。憂鬱で仕方なかった。佐一い兄さんに貰った勇気など簡単に潰されそうなくらい。

「はあ、」

もう一度ため息を吐いて、佐一兄さんが梅子お姉さんと話し終わるまでの時間を潰そうと適当な場所へと移動しようと歩き出した時だった。ふと、軽い駆け足の音が聞こえて、私の隣を五つ六つ程の子供が走り過ぎて、そして転げた。あっという間の出来事で呆けていた私だったけれどはっと、我に返って慌ててその子どもに駆け寄る。その子は男の子だった。

「ねえ、だいじょう、ぶ……」

声は震えなかっただろうか。表情は変わらなかっただろうか。私は平静を装えただろうか。だって、だって、起き上がったその子の顔は。

ああ、兄さんの想いが強すぎたのかな。梅子お姉さんの美人の血が、勿体無いよ。

「だ、だいじょうぶです……。おみぐるしいところをおみせしました……」

子供の舌足らずな口調で妙に大人びた言葉を吐くその子供は寅次兄さんにそっくりだった。寅次兄さんの遺志を継ぐ、結ばれた果実は確かに存在したのだ。

「でも擦りむいているわ。傷を見せてご覧、そのままだと悪い菌が入って病気になってしまうわ」

「……でも、」

「あなたのお父さんとお母さんを知ってる。寅次と梅子っていうでしょう。お姉さんはあなたのお父さんとお母さんの……友達、だったの」

私を不審がる子供だったけれど、両親の名を出せば少し警戒を解いたようだった。おずおずと擦りむいた膝を差し出す子供を近くの木陰に座らせて、私は自身の水筒と治療用の道具を取り出した。

「少し染みるかも、我慢できる?」

「ぼくはりっぱな男です!これくらい……っ」

患部を水で洗って消毒液を当てた時、僅かに潤んだ子供の瞳の形が寅次兄さんにそっくりで、私の心臓は痛いくらいに跳ねた。戦場での治療に比べたらずっと簡単な治療は手際よく終わり、あっという間に終わったそれに子供は目を丸くして私を見た。

「すごい……、おねえさんはお医者なのですか?」

「看護婦よ。でも本当はお医者になりたかったの」

「すごい……、まるでなまえおばさんのようですね」

「っ!」

何故その名前を、そう思った。どうしてこの子が私の事を、どこで、誰に聞いたの?

「……なまえ、おばさん?」

「はい!父の妹の方です。でも、亡くなった、って」

「……え、?」

息が出来ないような衝撃、まるで頭を思いきり殴られたような。次から次に与えられる衝撃的な言葉に私の心臓はまるで耳にあるように大きく大きく鼓動を打った。

「その、なまえおばさんが亡くなったっていうのは、」

「祖母に聞きました。おばさんはお医者になりたかったんだけど、ぼくが生まれるよりも前に亡くなってしまったんだって」

それからどうやってその子供と別れたのか、実はよく覚えていない。気付けば私は村の入り口で隠れるように佐一兄さんを待っていた。思考を支配しているのはただ一つ、父母の中で私はもう、死んでしまったのだという事だけだった。悔しかった。どこかで私は父母は、父母だけは私の事を待ってくれているのではないかと思っていたのだ。この戦争で、地獄の中で、何も成せなかった私でも、唯一父母だけは「頑張ったね」と認めてくれるのではないかと。

ふと、来た道の方を見た。ふらふらと覚束ない足取りで歩いてくる人影が夕日に長く伸びている。佐一兄さんだった。

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