私が佐一兄さんを好きになった事に理由があったのだろうかと、時々考える。気付いた時には私は佐一兄さんが本当のお兄さんじゃなくて良かったと思っていた。その感情の変化の理由を私は探していた。この感情を特別のままにしておきたくて。偶々側にいた男の人だったからじゃなくて、佐一兄さんだったから好きになったんだって誰でもない自分に主張したくて。
じゃないと私はいつまで経っても正面から佐一兄さんを好きだって言う事が出来ないような気がして。
佐一兄さんは優しい。兄さんなんか比べるべくもなく、周りの大人たちよりもずっと。それはきっと私が彼とは何の関係も無いところにいるからなのだと私は推測していたけれど。佐一兄さんの優しさは私にとっては無責任な優しさそのものだった。勿論彼は私がしてはいけない事をしたら叱るだろう。でもそう言う事が言いたいのではない。彼の優しさは私にとっては毒だった。
佐一兄さんに優しくされると私は思い上がってしまう。いつか私も佐一兄さんに「親友の妹」じゃなくて「女の子」として見て貰えるのではないかと。私を「私」として対等に見てくれるのではないかと。寅次兄さんに付随するおまけじゃなくて、いつか私を。
ありもしないそんな事を私は想像してしまう。
ぼんやりと家の近くの大きな木の陰に座って、私は本を読む事が多かった。別に好きな訳じゃない。他にする事が無いのだ。家に帰れば両親から手習いだの花嫁修業だのを強いられるし、同年代の子供もいないから遊ぶ事も出来ない。自然と一人で過ごす知恵(と言う程の物でもないが)を身に付けて、私は今日も一人で本を読んでいた。
季節は夏の始まりを告げていた。蝉が少しずつ求愛を始め、太陽は強く輝き痛いくらいの日差しが肌を焼く。好きな季節ではないが時の移り変わりを止める術も持たない私は耐えるしかない。煩い家を飛び出してようようこの木陰にやって来たという訳だ。不思議な事に日向は暑くても、日陰は意外と涼しくて過ごしやすかった。
「あれ、なまえちゃんだ」
「……!佐一、兄さん……」
心臓が止まるかと思った。佐一兄さんは家の手伝いでもしていたのか抱えていた荷物を抱えなおすとこちらに向かって来る。そして私の隣に人一人分くらいの隙間を開けて座った。
「こんにちは……」
「こんにちは。何読んでんの?」
「この間往診のお医者さまに借りた看護の基礎の本です」
表紙を示して佐一兄さんに見せる。佐一兄さんはそれを繁々と眺めていたけれど感心したように「なまえちゃんは凄いなあ」と言った。
「な、何が、ですか……?」
「俺はこんな小難しい本理解出来ないよ。なまえちゃんの将来は医者かな?偉いなあ!」
偉いなあ凄いなあと五歳の子供の夢を褒めるような佐一兄さんの様子が可笑しくて唇を緩めてしまう。同時に私の滑稽さにも。
「私も、全部分かってる訳じゃ……それに、こんなんじゃ、」
「なまえちゃん?」
別に医者になりたい訳じゃなかった。私には目の前の消えそうな生命全てを救いたいという崇高な想いも無ければ、女であったとしても身を立てたいなどという熱さも持ち合わせてはいなかった。ただ、ただ一つ持っていたのは。
「いつか、私が労咳を不治の病じゃなくしたいんです」
「……え?」
私がただ一つ持っている願いは思っていたよりも密やかに、でも力強く吐き出されてしまった。まるで熱のある崇高な夢のように。本当は違うのに。この想いはもっと打算的な薄汚れた感情から生まれた物なのに。
「難しい話だっていうのは分かってます。でも労咳が治る病になったら、…………佐一兄さんはもう、苦しまなくて済むから」
目を丸くする佐一兄さんの顔を横目で見ながら私は喋り過ぎた事を後悔した。誰にも言わなかった事。女だてらに医術などときっと両親は反対するだろう。もし、仮に賛成してくれたとしても医者になるには莫大な金と、それから頭が必要だ。私と私の家にそれが全て揃っているとは私は思えなかった。
それでも私は見ていたくなかった。軒先を息を詰めて足早に通り過ぎて行く人々を、何でもないような顔をして拳を握り締めて見送る佐一兄さんの姿を。いつ自分が同じ病になるんじゃないかって怖くて堪らなくてでも、その怖さを誰にも打ち明けられなくて無理して明るく振る舞う佐一兄さんの姿を。
それなら、私が。そうしたら、私も。
そんな打算、佐一兄さんに言うべきではなかったのに。佐一兄さんは何も知らないから私の薄汚れた下心に優しく微笑んでくれた。初夏の生温い風が私たちの髪を揺らしていく。蝉の声が一瞬遠くなった。
「……ありがとな」
泣きそうな顔で微笑んだ佐一兄さんの投げ出された手が私のすぐ傍にあった。今なら触れられると思った。でも、出来なかった。それをする資格は私には無いと思った。それはもっと、私が途方もない私の「夢」を叶えた後に、「別の女の子」がするべき事だと思ったから。
幼い頃題名は忘れてしまったが何か恋の話を読んだ気がする。想い合っている王子と姫とそれを羨む三人目。三人目はどうしてか王子を殺さないと死んでしまう呪いをかけられていて、王子の寝室に忍び込むのに王子の幸せを壊せなくて自死を選ぶのだ。
昔その話を読んだ時、私はその物語は三人目が主人公なのだと思っていた。でも違う。最初から主役は王子と姫で、三人目はただの脇役。自身を主役だと思って舞台の上を必死で歩き回って、終わってみれば別の誰かが中央で笑っている。まるで滑稽な私の人生のように。
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