殺しの前夜

目の前を歩くディオの背中を、ゆっくりと追いかけていた。隣を歩かなければならないのに、僕の足はとてもゆっくりだった。目的地に着くのを遅らそうとしているように。

僕の先を歩くディオは、振り返って僕が遅れている事に気付くと少し顔を顰めて僕の許まで戻って来てくれた。ゆっくりと目を覗き込まれる。熱を測るように額に当てられた手は少し冷たい。

「疲れたのか?」

「…………ううん。でも……」

上手い言い訳が出て来なくて、口篭り俯くとディオはあからさまにため息を吐いて僕の手を引いて路地を少し入り、身を隠すように僕をしゃがませた。ディオも隣にしゃがんで、僕らは上手く言葉を交わせないまま暫く沈黙の音を聞いていた。

「分かってる。……だが、」

「……分かってるよ、」

絞り出すようなディオの声に胸が引き攣れてぎゅう、と彼の手を握った。ディオも僕の手を握ってくれた。そしてその反対の方の手には。

「…………でも、母さんのドレスはもうその一着しか残っていないのに、」

ディオの手には母さんのたった一枚残った形見のドレスが握られていた。酒が無いと暴れ、僕らを殴り喚いた父親が「売ってこい」と投げつけたのだ。

そのドレスの持ち主は、母さんは、とても綺麗な人だった。外見とか、そういう事ではない。何より心が美しかった。こんな汚らしい街には似つかわしくない、美しくて気高い心の持ち主だった。貧しくて、食うにも困っていて、おまけに生まれた子供は双子。一人、或いはその両方が、生まれた時に捨てられるか殺されるかしていてもおかしくなかった。そしてあの父親の事だから実際にそうだったのだろうと思う。それを母は身を挺して庇ったのだと聞いた。何度も。たとえ己が虐げられたとしても、だ。

「…………僕は、嫌だ。それを売るくらいなら、僕が、」

「っ、しなくて良い!」

握られた手に爪が立つような痛みが走った。ディオの顔が怒りに歪んでいる。でも必要とされる金は僕らが工場で稼ぐ工賃だけではとても賄える訳がなかった。

「お前は何もしなくて良い。……仕事を増やせば良い事だ」

「でも、すぐには、」

「…………クソッ」

ディオと二人で、母さんのドレスを抱き締める。母さんのドレスには、まだ、母さんの香りが残っているような気がした。路地に隠れるように二人で身を寄せて座り込み、僕らは何の役にも立たないそのたった一枚のドレスを抱いていた。

「…………」

「…………」

僕らは何も言えなかった。何を言ったところで無駄な事は分かっていた。僕らはこのドレスを売るしかないのだと。でも、もう一つ、考えている事は同じだったと思う。これを売る事は、僕らの中できっと、何かを殺す事に相違ないという事だ。

「ディオ、」「ナマエ、」

「それ」を言い出すのは怖かった。怖くて、ぎゅう、と抱いたドレスからはもう、母さんの温もりは感じられない。それどころか父親の怒りから隠れる事ばかり考えていた僕はもう、恐ろしい事に母さんの手の柔らかさを思い出せなくなっていた。その事に気付いたら、心はしっかりと決まったように思った。

「あの男を、殺そう」

二人の声が重なって、たった一つの声になった。単純で明快なその答えを、僕らは同じ思考回路で見つけ出した。殺すしかない、あの醜悪なクズを。僕らはもう、解放されるべきだと思った。あの男の血の呪いから。

「ディオ……」

「ナマエ……」

心なしか、ディオが安堵しているような気がした。僕と同じ考えを持っていた事に。それは自惚れなのかも知れないけれど、僕も同じ感情を確かに感じていた。

「どうやって殺そう?」

「病死に見せかけて毒を盛る。東洋の毒薬は、証拠が残らないと聞いた事がある」

「なら食屍鬼街だね。……確か東洋人の薬屋がいた」

心臓が音を立てて鳴るのを感じた。怖いからではない。高揚からだ。本当は許されざる事をやっているはずなのに、僕らは、少なくとも僕は、この悪事に心を高鳴らせていた。それはいつかの夜更けにディオと二人で蜂蜜入りのホットミルクを飲んだのと丸切り変わらない高揚感だった。

「アイツは一昼夜では死なない。絶対に気取られないようにしよう」

「うん、大丈夫だよ。僕らは我慢には慣れている、でしょ?」

ディオが微笑んだから僕も微笑んだ。確信があった。二人でなら、完全犯罪だって可能だと。二人でなら、こんな汚い世界だって生き残れるはずだと。そう信じていた。

手に抱いたドレスをもう一度抱き締める。母さんに応援してもらいたかったからだ。母さんに知って欲しかったからだ。僕らの復讐を。それなのに不思議だと思った。さっきまで母さんの匂いまで思い出せそうだったのに、それは全くのただのドレスでしかなかった。

「…………?」

「ナマエ?」

「あ、何でもない。じゃあ、もっと仕事を入れないとだね。僕も工場の仕事を増やすよ。夜の仕事の方も、まあ、偶にはね」

ディオがどう言うか分からなかったから、曖昧に微笑んで言葉を濁す。でも、予想に反してディオは何も言わなかった。

「…………、頼む」

押し殺した声には苦悩が満ちていた。本当はディオにだって理想がある。それくらい知っていた。それでも僕らは子供だった。理想を叶える手段も知らない、ただの子供だったのだ。

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