朝になると、死体が増える。鮮やかに、残虐に切り裂かれた死体が今朝もまた。我々を嘲笑うかのように、朝には毎日のように死体が転がっていた。
今日の死体は随分体格の大きい男だった。これ程に大きな男なのだから、きっと下手人も大柄な男なのだろう。婦女子など狙われたらひとたまりも無いはずだ。
「だから、お前も気をつけろ。夜道を歩くな。極力一人でもいるな」
いつもの場所で、またあの花売りに会った。花売りの娘も私の事を覚えていたようで、私が暫し隣にいる事を許した。時折彼女の許に花を求めに来た客が私の事を不思議そうに見ていく。彼女は通りすがりの男に花束を渡して金を受け取ると、不思議そうに首を傾げた。少し冷たそうな印象を受ける表情が、途端に幼くなった。
「ですが、殺されているのは皆、男性の方ばかりなのでは?街の人が噂していましたよ」
私が苦い表情を隠しもしなかったせいか、彼女は眉を寄せて困ったように笑った。春先の曇り空はまだ僅かに冷える。一時的に客足が途切れたのを良い事に彼女は纏っていた肩掛けを手繰り寄せると細い指先で籠の中の花を幾らか取り出して編み上げ始めた。
「わたくしは平気です。夜に出歩く事などありませんから……。身寄りが無いもので、一人でいるな、というのは少し難しいですが」
「そう、か?だが、用心するに越した事はないのだ……」
それはとても小さな声だったけれど、はっきりとした拒絶のような気がして言葉が出て来なくなる。俯いて口の中で言い訳めいた言葉を口にした私に、花売りの娘はうっそりと微笑んだ。その手には売り物の花が編まれている。
「随分と器用なのだな」
「将校さまはこのような遊びをされて来なかったかしら。わたくしは幼い頃は良くお花でかんむりを作りましたわ。ほら、こんな風に」
編み上がった茎を持ったまま、彼女は私に手招いて見せた。素直に近付いたら、腕を取られていた。そして気付いたら。
「お花の腕輪。将校さまにあげます」
とても似合っています、と歌うような声に心臓が高鳴って、頬が熱くなるのを感じた。娘のややぎこちない笑顔はそれでもとても美しく見えた。それ迄の言ってしまえばとても無機質な顔に生きた表情が乗ったせいだろうか。娘は私の表情には気が付かなかったのか、近付いて来た時と同様に音もなく離れて行った。肩掛けをもう一度しっかりと己の身体に巻き付けると綺麗な動作で一礼する。
「では、失礼いたします。……お花を売らないといけないのです」
「っ、ま、待て!」
「……?何ですか?」
どうしてだろう、引き留めなければと思った。それはあり得ない想像なのに、ここで彼女と別れてしまうのは、とても良くない事だと思った。だから。
「名を。お前の名を、教えてくれないか」
「まあ、わたくしったら。偉い将校さまに名乗りもしていなかったんですね」
唇を引き結んで微笑むような柔和な顔を作った彼女は「なまえ、と申します」と小さく声に出した。
「なまえ、か。良い名だな。私は鯉登音之進という」
「……鯉登さま」
「そんな堅苦しい呼び方は止めてくれ。音之進で良い」
「よろしいのですか?……では音之進さま。いつもお勤めご苦労様でございます。……殺人鬼にはどうかお気をつけて」
なまえは微笑んで、優雅に膝を折って見せた。それはどこからどう見ても美しく完成された、完璧な所作だった。それから私に小さく手を振ったなまえは人混みを縫うように歩いて行って雑踏の中に姿を消した。
その後ろ姿が雑踏に消えるまで、私は彼女を見送っていた。どうしてだろう。彼女を見送る事が、とても恐ろしい事のように思えたのだ。何故か、彼女を独りにしてしまう事は「とても危険な事」だと思えてならなかった。彼女の言う通り、殺人鬼が狙うのは男ばかりで、なまえはその対極とも言える位置にいるというのに、だ。
「なまえ、か……」
告げられた名を呟く。考えを巡らせる時の癖で口許に手を当てた時に柔らかな匂いがふわりと香った。なまえに巻かれた花の腕輪だ。
華やかだが華美過ぎる訳でもなく、落ち着く匂いだ。まるでなまえのようだと思った。そう何度も顔を合わせた訳でもなく、その内面も知らぬというのに。
どうしてだろう。なまえに惹かれている自分がいる事を私は既に気付いていた。初めて出会った時から、その存在を認知した時から、何故か彼女を「一人にしてはならぬ」という気持ちが湧き起こったのだ。色恋のように聞こえるが、そんな軽佻浮薄は思いとはもっと異なる、これは重大で大切な天啓のような思いが確かにしたのだ。
なまえの消えた雑踏を見つめる。そこにはもう、なまえの気配など少しも無い。雑踏は殺人鬼など我関せずとばかりに思い思いの場所に足を運ぼうとしている。しかし不意に見つめられているような気がして目を瞬かせた。けれどそこには当然ながら誰もいない。雑踏に背を向けて、一度振り返る。ガラス玉のような透明な視線が、まだ何処かから私を見ているような気がした。
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