館の何処を探してもナマエ様がいらっしゃらない。普段は図書室やバルコニーにいらっしゃる事が多いから、私はよく用事を作ってその付近の掃除をする事が多いのに。外出された事も考えたが、基本的にナマエ様の外出にDIO様は良い顔をなさらない。それにナマエ様の性格からして、DIO様や私に何も無くお出掛けになるのは少し考えづらかった。
(まさかまだ部屋にいらっしゃるのだろうか)
ナマエ様は人間のため、通常の食事が必要だ。毎朝必ず、という訳ではないが一週間に四~五日の頻度で朝食を摂りに来られるナマエ様が今日は厨房にもいらっしゃらなかった。
そういう日なのだと思えば良いのだろうが、何となく違和感があって私はつい瑣末な用事を作ってナマエ様の私室の前に立っていた。
ノックをするのはいまだに緊張する。DIO様がいらっしゃったらどうしよう、などと思っている自分がいる。これは確信している事だが、DIO様は私の事を良く思ってはいらっしゃらないだろう。それは私がナマエ様に抱く想いをDIO様がご存知だからだ。
小さく深呼吸して、出来るだけ扉の向こうに耳をそばだてる。物音や気配は分からなかった。意を決して分厚い一枚扉をノックする。少しだけ扉の向こうの空気が動いたような気がした。
「……だ、れ」
か細い声が扉の向こうから聞こえる。掠れた弱々しい声はナマエ様の物で間違いがない。
「ナマエ様、私です。テレンスです。御姿が見えないようでしたので。何か御入り用の物などございますか」
話していて少し違和感を覚える。例えばナマエ様はいつもすぐに扉を開けてくださるのに、今日は違うのかという事とか。例えば声だって私を魅了する事など造作も無い良く通る透き通った物のはずなのに今日は随分覇気が無い事とか。
「…………」
「……、ナマエ、様?」
扉の向こうからは何の声も聞こえない。違和感が大きくなって、意を決してもう一度扉をノックする。
「ナマエ様?大丈夫でいらっしゃいますか?……っ、失礼ながら、開けさせていただきます」
恐る恐る扉を開ける。そこにいたのは。
「っ、ナマエ様!」
扉の前に倒れ伏すナマエ様の姿だった。慌てて抱き起こすとその身体は酷く熱かった。確認のために額に手を置くと尋常ではない熱を発している。抱き起こされた事でナマエ様の目蓋が震え、ルビーのように赤い瞳が薄らと見えた。
「……ぅ、て、れんす、」
「嗚呼、どうかお話にならないでください。すぐにベッドにお運びしますので。こんな酷い発熱、安静になさらないと……」
成人男性とは思えない程軽い身体を抱えてベッドまで運ぶ。ベッドサイドの水差しは空になっていて、ナマエ様が昨晩から熱に魘されていたのだろう事が窺えた。
「ここ数日、ずっとちょうしがわるかった、んだ」
ナマエ様をベッドに寝かせて、首元まで毛布を掛ける。エジプトは昼と夜の寒暖差が激しい。元々ナマエ様はお身体がそれ程強くないとの事らしいから、慣れぬ気候に身体が参ってしまったのだろう。
「言っていただければ何でもしましたのに、」
「大丈夫かな、とおもっていたんだ、けど……」
疲れた顔で苦笑を見せるナマエ様に心が痛む。まずは水差しに新しい水を注いで来なければとその場を離れようとしたら、ナマエ様に名を呼ばれた。
「どこにいくの?」
気のせいだろうか。ナマエ様の赤い瞳が不安に揺れているような気がした。心なしか口調も幼いような気がする。
「水差しに水を注いで参ります。それから着替えもお持ちしますので。食事が出来そうであれば、それもお持ちしますが、」
「…………水だけでいいから、すぐかえってきて」
「……承知いたしました」
心臓を握られたような甘い痛みに水差しを取り落としそうになるのを耐えながら足早に厨房に向かう。ナマエ様の甘えるような舌足らずの言葉が耳から離れない。厨房ではホル・ホースの摘み食いを現行犯で見つけたが、時間が惜しいので無視しておいた。冷静になろうとするのに手が震える。ナマエ様の部屋に戻るのに少し時間が掛かってしまった。
「まずは水分をしっかりと摂取してくださいませ」
冷たい水をコップに注いでナマエ様に差し出す。何とか身体を起こしたナマエ様は緩慢な動作でそれを受け取るとゆっくりと口をつけた。
「ありがとう、」
しかしコップ半分も飲まない内に、それを押し付けられたから最後まで飲むように促すも、ナマエ様は駄々を捏ねるように首を振る。
「もう要らない」
「ですが、」
「のむの、つかれるからいらない」
そのまま毛布に包まろうとするナマエ様を押し留める。手首を掴めばそこはしっとりと汗ばんでいた。
「こんなに汗をおかきになっているのですから、」
「…………」
子供のように顔を背けるナマエ様の強情さにため息が溢れる。ナマエ様は耳聡くそれを聞き付け、窺うように私を見た。
「じゃあ、テレンスがのませて」
蜂蜜のようなとろりとした声に生唾を飲み込んでしまう。緩慢にナマエ様の身体を起こしてその背を支え、その口許にコップを宛てがう。
「……飲んでください」
「……そう、じゃないでしょ。わからない?」
幼子が母親に甘えるように、ナマエ様は甘たるい声で私の理性を撫でた。ぞっとするくらいに背筋が粟立ち、思わずナマエ様を凝視してしまう。
白い頬は赤らみ、私を見つめる瞳はぼんやりと潤んでいる。自然とその頬に手が伸びた。柔らかくて、でも少し乾燥しているように感じるその頬に触れてなぞる。
「…………ん、」
許しを得ているのだからという悪性の声と主人の体調不良に付け込むのかという善性の声が鬩ぎ合う。ナマエ様が促すように私の瞳を覗き込んだ。少なくとも私にはそう見えた。
ナマエ様の口を付けたコップに口を付け冷水を口に含む。それからナマエ様の吐いた息を呑み込むように、ゆっくりと口付けた。たとえナマエ様の許しを得ていたとして、これは赦されざる事だと分かっているのに、愚かな私はただ無謀であった。
ゆっくりと口に含んだ水をナマエ様に受け渡す。ナマエ様の身体が震えたのが分かって高揚した私は深追いするように、その吐息すら食い尽くさんばかりにナマエ様を貪った。
「ん、て、れん、す……」
「…………ナマエ、さま……、ナマエっ、さま……!」
ナマエ様の指先が弱々しく私の服を握る。物理的にはきっと私の方が強者だろう。だがこの場で優位なのは圧倒的にナマエ様の方であった。舌と舌が触れ合う感覚に肌が粟立つ。ナマエ様と唇を交わす時はいつも不思議な甘さを感じた。
依存性でもありそうなそれを飲み込んで、名残惜しくもリップノイズを立てて唇を離す。どんなお叱りでも受けようと思った。項垂れる私にナマエ様は困ったような顔をした。
「……わがまま、いってごめん」
「何でも仰ってください。私はナマエ様にお仕えしているのですから。ナマエ様のために、いるのですから」
ナマエ様から与えられる物であれば何だって幸福だと思った。本心の言葉だったからそう言えば、ナマエ様はどうしてか、哀しそうな顔をした。
「…………昔のゆめを、みた。ぼくは風邪をひいて、熱もでてて、でも工場にいかないといけなくて」
「…………、」
ナマエ様の幼い頃の境遇を詳しく聞かされた事は無い。ただ貧しい生まれだったという事だけは聞いていた。ナマエ様がこれまで自身の過去を進んで語る事はあまり無かった。熱で意識が朦朧としているせいか拙いナマエ様のその喋りは、しかし私を惹き付けた。
「そうしたら、ディオが……ぼくを内緒でやすませて、くれた。じぶんが、二人分やるから、って」
ナマエ様の声が揺れる。苦しげに歪められた顔に心が痛んで、彼を再度寝台に寝かし付けた。ナマエ様はゆるゆると瞳を巡らせ私を見たが、その目に映っている物はきっと私では無かったはずだ。
「ディオも、同じことをいった。……『俺はナマエのためにいる』って。……ねえ、ディオを呼んで。ディオに、あいたい」
その赤い目に見えていたのは、その半身の御姿なのだろう。移ろい行く100年の時を、たとえ別たれたとしても彼らはお二人で生きてきたのだ。その間に、入り込む隙間など無いと分かっているのに。
身体中の血液が落ちて行くような感覚だった。落胆と言うには軽過ぎる気がした。しかし諦念と言うには生優しい。ナマエ様のお身体に障らないように、その金糸雀色の髪を撫でた。囁く声は聞こえただろうか。
「ご安心ください。何も心配はございません。…………すぐにDIO様をお呼び致します。あなたは何も、憂いずとも良いのです」
「……ん、」
ナマエ様はその長い睫毛を震わせるだけだったけれど、それで良かった。この方に生涯仕えると決めた。たとえ路傍の石のように見向きもされなくとも、きっと私はその温情を無様に乞うのだろう。
「お慕いしております。……誰よりも、何よりも」
臆病な私は答えを聞く勇気が無くて、すぐに踵を返す。扉の前で一度振り返るとナマエ様は目を閉じていた。その心中は私などに推し量れるはずもなかった。
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