ナマエ様が体調を崩されたと聞いた。弟のテレンスに探りを入れてみるととても嫌そうな顔をしながら、数日前に発熱した事を教えてくれた。
これから暫く館を離れるつもりだったので、その前に挨拶をとテレンスに仲介を頼む。ナマエ様が体調不良でなければ勝手に訪問したのだが、調子が悪いのであれば仕方がない。ナマエ様の側付きであるテレンスに頼めば都合の良い頃合いを教えてくれるだろうと見越しての事だ。勿論弟は顔を酷く顰めていた。
「それで来てくれたの」
「もう体調は宜しいのですかな?」
起き上がってヘッドボードに身体を預けているナマエ様の頬は青白いが、表情はいつもと変わりがない。テレンスからも病状は快方に向かっていると聞いていたから、起き上がっても然程差し支えはなさそうだ。
「もう殆ど平気。咳がたまに出るくらいで」
「お身体は大切にされなければ」
言った端からナマエ様はけほけほと空咳をする。水差しから水を注いだコップを手渡すと、「ありがとう」と柔らかな声がした。
「昔から風邪を引くと咳が残るんだ。気を悪くさせたなら済まないね」
「構いません。私の方から訪れたのですから」
「それで、何か用だった?」
ナマエ様の赤い瞳が不思議そうに私を見つめる。いつもはそこに渦巻く何か得体の知れない妖艶な色は全く見られない。それどころかその目の輝きは雪のように白い、純白の魂を反映しているように見えた。
「……御見舞いに来たのですよ。愚弟からあなたが体調を崩されたと聞いたので」
「テレンスから?」
きょとりとした大きな瞳は純真無垢な色を湛えて輝いている。まるで鏡のようだ。相対する者の性質を映し出すような。
「弟はあなたの事をとても心配していました。勿論、私も同じですが」
「そう。済まないね。心配を掛けてしまったみたいで」
にこにこと穏やかな微笑みを見せるナマエ様に私も微笑んで見せる。午後の陽光が窓から差し込んでナマエ様の金糸雀色の髪を輝かせた。暗い館の中で、ここは自然の陽光が入ってくる数少ない部屋だ。
「それからご挨拶に。今日の夜には館を発って、また暫くは戻らないつもりなので」
「ああ、そうなの……。君がいなくなるとテレンスが寂しがるね。勿論、私も」
自然な表情で眉を下げて「悲しいです」という顔を作るナマエ様に悪い気はしない。「テレンスが寂しがる」という言葉にだけは反目したかったが、ナマエ様の世辞に私も表情を緩める。
「愚弟はあなたのお傍にいられれば、それで満足なのですよ。私などとてもとても……」
「そうかな?歳の離れた兄弟っていうの、少し羨ましいけどな。私たちは双子だからか兄とか、弟とかっていう感じがしないんだ」
ナマエ様がくすくすと楽しそうに笑った。見た目はテレンスと同じくらいの年の頃だろう。寧ろテレンスより少しばかり若く見えるくらいだ。カレッジ生と言われればそれすら信じる者はいるだろう。それくらいナマエ様には世慣れていなさそうな雰囲気があるのだ。だがそこに隙は全くと言って良い程無い。全く矛盾しているはずなのに、この二つの事実は同一人物の元で混ざり合っているのだ。
「テレンスの小さい時の事も知っているの?」
「勿論。両親が忙しい人間だったもので、私が彼の面倒を見ていた事もありました」
「へえ、仲良しなんだね」
ナマエ様はどうも、私とテレンスを仲の良い兄弟にしたいようだ。啀み合っている訳ではないがDIO様とナマエ様のような間柄でもない。お互いに然程の関心は無い。私とテレンスの関係はそれくらいの距離感だ。
「勉強を教えてあげたりした?」
「さあ、弟は割と勉強が出来ましたからな……」
「遊んであげたりは?」
「ううん……、彼はどちらかというと一人遊びが好きな子供でしたので」
我ながらつまらない回答だとは思ったが、事実なので仕方ない。ナマエ様はぱちぱちと目を瞬かせていたが、眉を下げて不可思議な表情をした。
「そうなんだ。私もディオとそういう事、した事ないんだよ。じゃあ喧嘩はした事あるかい?」
「喧嘩ですか?それはまあ、それなりには……」
言葉を濁すが本当にそれなりに覚えがある問いではあったので頷く。するとナマエ様は嬉しそうに笑った。
「良いなあ。私たちは喧嘩した事も無いんだ」
「仲が良い事は悪い事ではないでしょう」
「まあ、そうだろうけどね。昔は殴り合いの喧嘩とか、憧れたものだよ。ディオが、泣くまで、殴るのを止めない、とかさ」
DIO様とナマエ様の殴り合いの喧嘩を想像して顔が引き攣るのを隠せない。穏やかそうな顔をしているが、ナマエ様は意外と荒っぽい性格をしているのだろうか。
「似合わないって思ったかい?」
「まあ、ナマエ様には些か似つかわしくないような気がしますな」
「子供の頃は割と乱暴な奴だったんだよ。今は大人になったからそうしないだけでさ」
肩を竦めるナマエ様は楽しそうに息を吐いて笑った。空気に溶ける柔らかくて甘い声は聞いていて心地良い。
「あなたが私の兄だったら、私はあなたと殴り合いの喧嘩をしたかなあ」
「……ナマエ様のような弟がいたならば、私はきっと弟を溺愛するでしょうな」
恐ろしい想像をするナマエ様に苦笑する。実は既にテレンスとは殴り合いの喧嘩(と言うより諍いだろうか)をした事があるとは言えず曖昧に笑って誤魔化す。ナマエ様は邪気の無い笑みを見せるが、その顔を見ると彼の言う事全てが本心に聞こえてしまう。
「でもあなたはテレンスのお兄さんだからね。テレンスからお兄さんを奪ったら可哀想だ」
「弟はそうは言わないでしょうがね」
私としては本心を伝えたつもりだがナマエ様は顔にかかった髪をゆっくりと払うと私の手に触れるか触れないかの位置に指先を置いた。人の心理を良く分かっている人だと思った。ここぞという場面で他人の内心に付け入る方法を彼はご存知だ。
「……こんなに素敵な兄上なのに。もったいないなあ」
心の隙間に忍び込むような囁き声に一瞬背筋が粟立つのを感じた。誘うような指先が徒に私の手の甲をゆっくりとなぞったせいだ。きっと弟はナマエ様のこれにやられたのだろうと確信が持てた。ナマエ様の存在全て、見目も声も所作も、纏う雰囲気すらも他者を魅き付けるには余りある。
「……、このダービーの事を、買い被っておいでのようだ」
「どうかな。買い被っているとかはよく分からないけれど、私はあなたの事好きだよ」
何の衒いも無いストレートな物言いに私の口の端が僅かに引き攣った事にナマエ様は気付いただろうか。生業のせいもあり己の動揺を外に出す事は絶対に無いと思っていたが、それもナマエ様の前では意味の無い事のようだ。
「揶揄われては困りますな」
「揶揄ってないけどね。なんならテレンスを連れてくる?」
ナマエ様の赤い瞳を覗くがそこに嘘の色は見られない。人の心の内には些か詳しい事を自負しているがそれでもナマエ様の本心は読み取れなかった。
「いえ、その言葉を聞けばテレンスはきっと私に嫉妬するでしょうからな。新たな兄弟喧嘩の火種になってしまう」
「そう。じゃあ二人だけの秘密だ。知っておいてね。私はあなたの事、好きだよ。だからまた私に会いに来て」
細くて白い指がまた私の手に触れる。不規則な指の動きは児戯に等しい程の触れ方だというのに、どこか官能めいた感情を引き起こす。甘えるようなナマエ様の笑みをもし、ナマエ様が分かっていてやっているのであれば、きっと彼は天性の博打打ちになれるだろう。
「あなたは、本当に人心を掌握するのがお上手のようだ」
「そんな事、言われた事無いね」
澄ましたように肩を竦めるナマエ様の目には今や何もかもを取り喰らう蛇のような色香が見えた。だが私が挑むようにその視線に対抗すると、彼は艶やかな表情を消して全く人好きのする笑みを見せるのだ。そうやって彼は誰をもの心を掴み翻弄して来たのだろう。御多分に洩れず、この私をも。