踊る人形

ナマエ様が起きて来られない。いつもならそんな日もあり得ると思えなくもないのだが、先日は結局体調を悪くしていて寝付かれてしまった訳だから心配になってしまう。その時の体調不良からは既に回復されているが、ついつい用事を作ってナマエ様の部屋に行ってしまう。

「…………、ナマエ様?」

ノックをしても返事は無い。もしや顔を合わせていないだけでもう、起きて来られていたのだろうかと首を傾げた。だが、部屋の向こう側で俄かに気配が動いた気がした。

「ナマエ様?……失礼ながら、開けさせていただきます……」

先日とまるで同じシチュエーションだと、既視感を感じながらナマエ様の部屋の扉を開ける。いつもながら物の少ない部屋にさり気なく視線を配る。それから気配の量が多い部屋の奥の方の寝台に目を遣った。

「……!」

「…………おはよう、テレンス」

そこには当然ながら部屋の主であるナマエ様が曖昧に微笑んでいた。だが異質だったのはその隣には女が一人、一糸纏わぬ姿で寄り添っていた事だ。ナマエ様も毛布の掛かっていない上半身は少なくとも夜着を纏っていなくて、それはまるで情事の後のようで、というかそのもので私は図らずも目を逸らしてしまう。

「その、大変、申し訳ございません」

「え?ああ、別に、大丈夫。…………彼女を部屋まで送ってあげて」

緩慢な動作で隣に眠る女を揺さ振ったナマエ様の眉が少し下がっているような気がして不審に思った。しかしそれを問う前に女が目を覚ます。

「ナマエさま、」

「…………おはよう」

当然のようにナマエ様が女と唇を交わすのを見ている事は出来なかった。きつく拳を握り、湧き上がる感情を押し込める。憎悪に似た感情がゆっくりと血管を這い巡るような気がした。目の前の女に対して憎悪より、より濃くてより粘着質な感情が。

「さあ服を着て、部屋にお帰り。あなたはディオのための人だから、もうここに来てはいけないよ」

ナマエ様の口にする言葉は何処か空虚だ。いつものように心の奥底に入ってくるのは同じだが、何か上滑りしているように感じる。

「ナマエさま、わたくしは……」

「……テレンス。彼女を送ってあげて。私も後で食事を取りに行くからよろしく」

女の言葉を遮るように私に指示を下したナマエ様に一礼をもって答える。俯いて服を纏った女は確か、カイロの成金の娘だったはずだ。彼女は何か言いたげにナマエ様を見つめていたが、ナマエ様は微かに笑むだけで、見様によってはそれは拒絶に見えた。

「では、失礼致します」

「…………ああ。……ありがとう」

ナマエ様の部屋を出る時に、妙な胸騒ぎがして一瞬だけ振り返った。目に捉えたナマエ様の表情は、何処か思案しているように見えた。

「………………」

「………………」

静かに私について来る女について考えを巡らせる。カイロの成金の娘で、二週間程前にこの館に連れて来られてまだ、DIO様には食われていない。それ以外にこの女について知っている事は何も無かった。名前も歳も何も。だからこそこの女の何が良くて、ナマエ様は彼女を選んだのだろうと、そればかりが頭を駆け巡っていた。この女に足りていて私では及ばない所を探していた。

「…………ふふ、」

不意に女が笑った。振り返る。空気を揺らすような笑い方だった。ナマエ様がよくする笑い方。だが似ても似つかない。神経を逆撫でされたような気がした。

「あなた、ナマエ様の事が好きなのね。崇拝とは違う、もっと自分勝手な感情だわ」

翠の瞳には勝ち誇った色が見て取れた。それは明らかに私に対する挑戦だった。咄嗟に女を殴らなかった自分を褒めて欲しいと思った。拳を握り、奥歯を噛み締め、努めて無表情を作ろうとするがきっと失敗していただろう。女は私の表情を見て確信したように笑みを深めた。

「やっぱり。でも駄目よ。ナマエ様は私の物。あんなに美しくて繊細で、そして純粋で儚い人は見た事が無いわ」

「……随分と傲慢な方ですね。ナマエ様が誰かに所有される器だとでも?」

自分自身でも声を震わせないようにする事が難しい。怒りを顔に出さないように取り繕うのに必死で、視界が明滅する。女は目を細めて笑った。汚らしい表情だと思った。ナマエ様の横に立つには相応しくない。

「でも、ナマエ様は昨夜、私が隣にいる事を許したわ。何があったかなんて、言わなくても分かるでしょう?」

女が滑らかに自身の二の腕を撫で上げた。官能を覚えるようなその触れ方に血が沸騰しそうになる。早くここから立ち去らないと、私はこの女を殺してしまう。

「ナマエ様はね、とても優しく触れてくださったわ」

「止めてください、」

「まるで私の事を本当に愛してくださっているみたいに。触れられるだけで身体が熱くなって、」

「っ、止めろ……!」

「灼けそうなくらい熱い目で見つめられて、」

「止めろ!!」

気付いたら女に掴みかかっていた。その細い首に手が掛かっていて一気に締め上げていた。女は苦しげな顔をするがその目には私を見下したような瞳の色が残っている。だからこそ、ただこの女を害する事だけを考えていた。

「……っ、あ、ぐ……っ、」

濁った音が親指の下から聞こえる。女の息の通り道を私が潰してしまっているから、彼女は酸素を取り込もうと必死の形相を見せた。ナマエ様は昨夜この顔を見ただろうか。こんなに醜い表情を。

「…………何を、しているのかな?」

とても平坦で透明な声が廊下の奥から聞こえた。全身から血の気が引いて、すかさず女から距離を取る。女は糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちて、足りない酸素を補うように喘鳴音を鳴らしながら呼吸をする。

声の主は、ナマエ様は、不思議そうな顔で私に近付いてくる。何と言えば良いのか分からなかった。何と言えばナマエ様が分かってくださるのか。

「あ……、あ、あの、これは……!」

「シュリ、大丈夫?」

私の横を擦り抜けて女の隣に膝をつくナマエ様は困ったように眉を下げ、彼女の顔を覗き込む。女の名がシュリだという事を私はこの時初めて知った。

「っ、ナマエ、さ、ま……」

震える息で女はナマエ様に抱き着く。ナマエ様に見えない角度で女は私に向けてほくそ笑んだ。

「テレンス、」

「っ、ち、違うのです!これは、これはっ、その……!」

状況を見れば、私が悪いに決まっている。だがこれはもっと根本的で重要な問題だった。だが、ナマエ様は言い訳を許してはくださらなかった。私の言葉を強い視線で押し留めると、女に部屋に帰るようにと言った。女は僅かに抵抗を示したが、ナマエ様が有無を言わせないように首を振ると蹌踉めくように廊下を歩いて行った。そして、私たちだけが残された。

「…………」

「テレンス」

ナマエ様の咎めるような声に息が詰まる。首を絞められたような苦しさに身体がぶるぶると震えた。背中を汗が伝って、足に力が入らない。心臓が嫌な音を立てて視界が明滅した。あの女もこれ程苦しかったのだろうか。

「テレンス。息を吸って」

ナマエ様の良く通る声が聞こえた。繊細な手が私の背を摩る。その声と手の感触が私を鎮静させていく。それでも立っていられなくてその場に蹲ると、ナマエ様も追い掛けるように私の隣に膝をついてくださった。摩られる背中の感触に合わせて呼吸をする事で少しずつ、呼吸が落ち着いていく。ナマエ様が私の顔を覗き込む。

「落ち着いた?」

「っ、申し訳ありません……」

ナマエ様の形の良い手が私の肩に触れる。私の事を持て余すような表情に、ナマエ様の顔を見ている事が出来ずに俯く。

「驚いたよ。シュリにあんな事をするなんて、いつものテレンスらしくない。……いったい、どうして」

ナマエ様が不思議そうに私の顔を覗き込む。その甘い声と香りを近くに感じたら、無礼だとは分かっているのに彼を抱き寄せずにはいられなかった。ナマエ様の体温が触れた所から伝わってくる。

「テレンス……?」

「申し訳ありません……。です、が……っ」

この人の辿る道を追うと決めた。その背を追っていれば間違いは無いのだと知っていた。だから振り返って貰えなくても良かった筈なのに。

いつの間にかその視線を、声を、温もりを私に向けて欲しいと願うようになってしまった。この人の心が欲しいと願ってしまった。たとえ欠片でも構わないから。

「…………あなたが」

「……?」

「あなたが、あの女と、っ……、あ、あんな……」

言葉が上手く継げない。昔から他人に気に入られる事には長けていた。相手の目を見れば何を言われたいかすぐに分かったからだ。それなのに、ナマエ様相手では何も出来ない、どんな言葉も口を衝いて出て来ない。ナマエ様がゆっくりと息を吐いた。少なくとも私が何を言いたいかは理解してくださったようだ。

「…………そう」

伏せられた目を見ていたくなくて、強く強くナマエ様を抱き締めた。誰かをこれ程までに求めた事が無くて、どうしたら良いのか分からなかった。

「テレンスは、何か勘違いしているみたいだね」

「…………どういう事、でしょう」

ナマエ様の声に笑みが含まれているような気がした。でも、私には勘違いも何もないのだ。ナマエ様の私的な領域にあの女がいた事が問題なのだ。

「……シュリとは、別に何かがあった訳じゃあ無いんだ」

腕の中から聞こえるナマエ様の声は軽やかだ。白くて細い手が私の肩に触れた。

「…………、それ、は」

「確かに迫られたけれど、そういう気分にはなれなくて。代わりと言ってはなんだけど、一晩お喋りをして過ごしたのさ」

ナマエ様の目を見つめる。その真意は分からなかった。その言葉も真実かどうか分からなかった。ただ一つ分かったのは、ナマエ様が「あの女とは昨夜何も無かった事にしたい」と思っているという事だけだった。

「…………言ってくださればすぐに対応いたしました」

「君の手を煩わせるまでもないと思ったんだ。シュリはディオのための人だし、大事になると良くないかと思って」

苦笑したナマエ様は私の目をじいっと見た。いつもは目を灼きそうな強い光が、今日は柔らかく見える。悪戯っぽく笑ったナマエ様は私の耳許に唇を寄せた。

「君が思っているような事は、何も無かったんだよ」

言い包めるような声音が耳朶に直接吹き込まれ、背筋が震える。ナマエ様は何もかも分かっていると言わんばかりに薄く微笑んだのだろう。まろやかな声が耳許で転がった。

「でも、彼女はディオのための人だからね。……もう私は会わない方がいいと思うんだ」

「っ、」

分かるだろ?と耳許で声が囁いた。くすくすと軽やかな笑い声に言い様の無い歓喜と、そして僅かな恐怖が駆け巡る。ナマエ様があの女に心を奪われていないという事実に対する歓喜と、そしてどれ程の想いを持ったとしてもきっと、ナマエ様はそれをいとも簡単に切り捨てる事が出来るのだという恐怖だ。

身動ぎ一つ出来ない私の顔を、ナマエ様は至近距離で見詰めた。いつも通りの柔和な笑みがそこにはあった。まるで朝食のメニューを尋ねるかのような語り口で、ナマエ様は私を駆り立てる。

「シュリにようく言い聞かせておいて。上手く収めてくれたらテレンスにはご褒美をあげよう」

赤い瞳には柔らかな光が存在していた。見る者全てを安堵で包むような色だ。聞く者全てを魅了する声が今は私だけに語り掛けられている。ナマエ様のお顔が近付いてきて、唇が交わされる。触れるだけのそれを何度か繰り返すとナマエ様は私から距離を取る。追い掛けようとしたのに、全く捕まえられなかった。それはナマエ様の明確な拒絶であった。続きはきっと、事が「上手く収まった」後なのだろう。

「これはね、テレンスにしか頼めないんだ」

しんらい、しているよ

甘く囁かれた言葉は即効性の毒物のように身体に吸収されていく。魂の収集以外の目的で、人を手に掛けるのは初めてだった。ナマエ様は如何なのだろう、とふと思った。

ナマエ様は誰かを手に掛けた事があるのだろうかと。