いつかさよならの時までは

眼下に広がる海からの反射が眩しくて蒲生は目を細めた。美しい景色だったが、蒲生にはあまり響いてこない。
彼は元来景色を楽しむというようなことはしなかったから。

海を一望できるベンチに座って彼は今日の予定について思いを巡らす。
今日の予定は二件だ。
一つは先程終わらせた。最近注文を受けた客の所へ出来上がった品を届けに行ったのだ。

もう一つは。

少しだけ顔をしかめる。
「あそこ」に行ったら最後長くなることは目に見えていたからだ。

美しい横浜の港を尻目に蒲生は歩き出す。

蒲生の二つ目の予定。
それは英国総領事公邸に呼び出され、暇を持て余した総領事アーネスト・グラハム氏のチェスのお相手をすることだった。

普通の人間にとってしてみたらそれはとても名誉なことなのかもしれない。だが蒲生にとってそれはただの「任務」でしかない。

ここのところほぼ毎日通っているから、最早顔馴染みになっているため、警護の者も簡易的な身体検査しかしない。
随分信用されたものだと、蒲生は内心で笑った。

「あ!蒲生さん、今日もいらっしゃったんですね」

警護を抜けた先、瀟洒な玄関ホールで蒲生を待ち受けていたのは美しい少女だった。
白く透き通った頬を薄い薔薇色に染め、はにかんだような笑みを浮かべている。
偶然を装った風だが、きっと自分が来ることを知って待っていたのだろうと蒲生は満足げに笑う。

少女の名はナマエ。年の頃は大体17、8といったところか。
パーラーメイドというだけあって背も高く、整った顔立ちをしている。

「ええ、ナマエ。貴女の雇い主はとてもチェスがお好きなようだ」

「そうなんです、旦那さまったら昨日の夜から貴方の来るのを待っていましたもの」

くすくすと笑いながらナマエは蒲生を客間へと案内する。
ナマエの若く瑞々しい魅力は非常に好ましいものだと、先導する彼女の後姿を眺めながら蒲生は一人思う。亜麻色の髪をシニヨンに結い上げた彼女の、後れ毛の残る白く細い項は純粋に唇を寄せてみたいと蒲生に思わせるだけのものはあった。

客間に通された蒲生は暫く待たされる。
グラハムへの取次ぎに行ったナマエを見送って、彼は一人思案する。

ナマエは恐らく自分のことを好ましく感じている。
もっと言えば彼女は自分を男として見ているだろう。

唇が歪む。
ここにいる連中は自分が本当にテーラー寺島で働く若いテーラーと信じて疑わない。
勿論自分がそうなるように仕向けたわけだが、それでもこうも上手くいくとなると逆に拍子抜けする。
他愛も無いものだとひっそり笑う。

ふと扉の向こうから気配がした。
蒲生は何気なくその気配の元を探る。それは最早習慣となっている行為だった。
二人、男と女。男の方は当然グラハムだと見当をつける。
そして女は。

「君、待たせたな」

グラハムに連れられて、戸惑ったような顔で立っていたのは他でもないナマエだった。

グラハムは普段チェスの場に使用人(張は執事だから例外ではあるが)を連れてくることはない。
使用人の前で年若いしかも日本人に敗北を喫することはプライドの高いグラハムにしてみれば避けたいことであるだろうし、何より無粋な使用人の立てる音は彼の大好きなチェスの妨げになってしまう。
だから蒲生も今までグラハムが対決の場に使用人を連れてくるのを見たことはなかった。
少し意外そうな顔をする蒲生に気付いたのかグラハムは「今日はこれに給仕でもさせようかと思ってね」と恰幅の良い身体を揺らして笑った。
ナマエは突然の指名に緊張で頬を紅潮させながら、伏し目がちに微笑んだ。

ナマエの給仕は結果から言うと完璧なものだった。
対局の邪魔にならないよう、殊更静かに控え、対局が終わると絶妙なタイミングで給仕した。
その手際には蒲生でさえも内心舌を巻くほどだった。

本日2局目の対局を蒲生の勝利で終わらせた後、少し離れたワゴンでティーポットを傾けているナマエの後姿を眺めながら蒲生はしみじみと言った。

「よいメイドをお抱えのようですね」

「そうだろう?あれは妻が気に入っていてわざわざイギリスから連れてきたのだ。若く健康的で、何よりあの美しさだ。手放すのは惜しいと思ってね」

舐めるような目つきで彼女の背を見るグラハムに蒲生はつくづく低俗な男だと呆れる。
だがよいことを聞いた。

―主人とその夫人に気に入られたメイド

ナマエと懇意になればより深くまでグラハム邸の内実に踏み込めるやもしれぬ。
あるいはナマエを「協力者」の一端として取り込むこともできるかも。
蒲生にとって女とは自分に都合よく動く手段でしかなかった。

「ええ、私もそう思います」

「ではどうだね?あれもそろそろ年頃でね。妻が気を揉んでいるのだよ」

「はは、もったいないお言葉です」

肩を竦めて謙遜の言葉を述べる。
だがその提案は蒲生にとって悪くないものだ。
この話はそこで打ち切りとなったが、蒲生は再び頭を巡らす。
ナマエとより懇意になる方法を。

***

漸くグラハムのチェス狂いから開放されて、やや疲れた身体を抱えて客間を後にする。
案内してくれるのはやはりナマエだった。
玄関まで蒲生を送った彼女はやや疲れた顔をしている蒲生に眉をよせて笑った。

「蒲生さんは大変ですね。旦那さまはとてもチェスがお好きでいらっしゃるから」

「とんでもない。ここに来ることは私もとても楽しみにしていますよ。私もグラハム氏には負けますがチェスは好きですからね」

朗らかな笑みを浮かべる蒲生に彼女も綺麗に微笑み返す。

「……ここだけの話、あなたがいらっしゃらない時は旦那さまは張さんを相手にしていらっしゃるわ。でも旦那様の方がずっとお強いから、張さんはすぐに負けてしまって。そうしたら旦那さまはいつも『こんな時貴方がいたら』と仰るのよ」

「それは光栄だ。でも、私が楽しみにしているのはグラハム氏とのチェスだけじゃあないのですがね」

「あら、屋敷に誰か素敵な方でも見つけたのですか?」

驚きと不安そうな感情の混ざった顔。
そのような顔をすれば彼女の気持ちなど蒲生でなくとも手に取るように分かってしまう。
美しい蝶を絡め捕って捕食する蜘蛛のような気分だった。
努めて優しい表情を作る。瞳の奥の激情も忘れない。
俯く彼女の顔を覗き込むようにして囁く。

「貴女だよナマエ。よければ今度私とどこかにでかけませんか?」

「え?」

「私はもっと貴女と仲良くなりたいので」

「で、でも」

「グラハム氏には私からお話ししますから。ね、いいでしょう?」

にっこりと笑って見せる。
途端に頬を染めるナマエを見て蒲生は含み笑う。
早く首を縦に振ればいい。その方がこちらもナマエも楽だ。
ぽうっと頬を紅く染め、上目がちに蒲生を見る彼女は一般的に見て非常に可愛らしいと評価されるだろう。
だが蒲生の心を揺り動かしはしない。

彼女は迷っているようだ。
それもそうだろうと蒲生は冷静に分析する。メイドは基本的に恋愛禁止。
いくら主人に気に入られていたとしても、節度は守らなくてはならない。
蒲生の提案を呑むことは決められた一線を踏み越えることだ。
それは彼女から全てを奪うことにも繋がりかねない。
若気の至りだけで決められるような選択ではなかった。
尤も、ナマエは聡明な上に賢明であったから、誘惑している蒲生ですら彼女がこの程度で道を踏み外すとは思えなかった。

もう一歩、押しが足りないか、と蒲生は内心舌打ちする。
仕方なく彼女の手を引っ張ってその腕の中に閉じ込める。勿論柱の陰に隠れるのを忘れない。
雇っているメイドに手を出したという噂が立てば蒲生が今まで築き上げてきた信頼は地に落ちるだろうから。
彼女もいつも紳士的な蒲生がこのような行動に出るとは思っていなかったようだ。
緊張で身体を固くし、必死に彼の胸板を押してその束縛から逃れようとしている。

「が、蒲生さん、何を……!」

「はっきり言いましょう。私は貴女を愛しています」

「あ、あの……っ」

「ねえ、教えてください。貴女は私のことをどう思っていますか?」

耳元で囁かれるねっとりとした声にナマエは震える。
絡めとられるようなその低音に足の力が抜けてしまい、彼女は蒲生の胸元にしなだれかかった。
その小さな頭を蒲生は優しく撫でる。

あと少し。
耳元で低く、それでいて情熱的に囁く。

「愛しているんだ、ナマエ。君がいるなら……何もいらない」

彼女が「そういった」物語に憧れていることは事前に調査済みだ。
それを知っていて蒲生は切り札に使う。

ナマエは目を瞑っていた。
恐らくその胸の中では様々な感情が去来しているのだろう。
蒲生はそっと彼女の顔を窺った。
ゆっくりと押し上げられた瞼の下の瞳が、海のように深い青色だったことに蒲生は初めて気付いた。

腕の中、こくりと小さく頷いたナマエに蒲生は笑う。
美しい女は嫌いではない。
それが自分のために動く女ならば猶更。

女は既にわが手の内に「落ちた」。
後は自分がどう扱うかだ。
勿論蒲生には女を手荒く扱う趣味はない。
蒲生は自分に「落ちた」女が自分のために動くのを見ているのが好きだった。
そして彼はそのための労力を惜しまない。

ナマエとて例外ではない。

近い内に必ず来る別れの日までは精々、大切に可愛がってやろうではないか。