優しさが見えにくい

その日は朝からとても体調が悪かった。
頭は割れるように痛み、身体の節々が痛く、どことなく熱っぽい。
仕事にも中々身が入らず、そのせいで訓練生たちの手をかなり煩わせてしまった。
もういっそ今日の仕事は全て明日に回して風邪薬でも飲んで寝るかと、回らない頭で考える。
ふらふらと自室に帰ろうと歩いていると、廊下の向こうから結城が歩いてくるのが目についた。
結城もこちらを視認したらしい。
迷わずこちらに向かって歩いてくるのを見て、少し嫌な予感がする。

「『仕事』だ。ついてこい」

「……はい」

結城の「仕事」はいつも突然だ。今日は多分定期的に通っている料亭に行くのだろう。
そこは自分も毎回ついて行く場所だ。というより自分もある程度噛んでいる「仕事」だから穴をあけることはできない。
どうやら休んではいられないようだった。

***

「小さな貿易会社を営む貿易商」を演じる結城と共に「仕事」をする時は、自分はその秘書を演じることになっている。
「社長」は彼女を信頼していて仕事の時だけでなく、私的な場でも必ず共にいる。
つまり彼の秘書である自分は社長に影に日向に付き従い、公私共に支えるという設定だった。
料亭の女将も二人が常に一緒にいることを分かっているようで、玄関先で結城の顔を見るとすぐ心得たように少し広めの座敷に通してくれる。

座敷に呼ばれて幾分もすれば華やかな衣服を纏った芸舞妓たちが現れた。
皆、人好きのする愛想の良い「社長」を取り合ってきゃっきゃとぞめいている。
それを遠巻きに眺めながら、相変わらず人気なものだと半ば呆れて注がれた酒にちびりと口をつける。
普段は何とも思わないのに、今日に限って隣に座った舞妓の白粉の香りに眩暈がしてくる。

何度もここに通っているから、自分にもそれなりに馴染みの芸子がいる。
普段は彼女たちとの他愛も無い話に心癒されたりもするのだが、今日はそれも辛い。
座敷の空気を壊さないように何とか彼女らとの話にも興じている振りをするが実際には横になりたい気持ちでいっぱいだった。
いっそ酔った振りでもしてしまおうかとすら考える。
段々と眩暈も激しくなってきていよいよ身体の均衡を保っていられなくなるから、やんわりと姿勢を崩して楽な姿勢を探すが見つからない。

(あ、やばい…………)

急激に血液が下がっていくような感覚がして遂に座っていられなくなり、その場に倒れ込んでしまう。
座敷の姐さんたちの悲鳴が聞こえたのを最後に、意思とは無関係に意識は闇の中に引き摺りこまれていった。

***

「……ん」

頭の後ろが柔らかいような硬いような微妙な感触に触れている。
本当に僅かに上体が持ち上がっていることから、頭の後ろに枕でも置かれているのだろう。
心地よいその温もりに再び意識が呑まれそうになるのを必死に堪える。
柔らかくて暖かい頭の熱は昔母親に抱き締めてもらった時のそれとよく似ていた。

薄らと瞼を持ち上げる。
霞む視界の中、誰かに覗き込まれていたようだ。
逆光に目が慣れるまで僅かに時間がかかった。

「なまえ、目が覚めたかい?」

「……は!?え、あ、は、はい……」

目の前には結城がいた。正確には「小さな貿易会社を営む貿易商」の結城だ。
つまり、今、自分の頭の下にあるのは……。
あまりの畏れ多さに上体を起こしかけたのを押し留められて、再び彼の膝に逆戻りする。
結城の目が恐くて見れなかった。

「急に倒れるものだから驚いたよ。全く、調子が悪いなら言ってくれればよかったのに」

やんわりと額にかかった髪を払われて、手を当てられる。
彼の体温の低い手が心地よくて目を瞑って息を細く吐き出す。
周りで女中や芸子が手ぬぐいや水を用意してくれているのを見て、漸く自分が倒れたのだと思い出した。

「ああ、随分と熱い。今日はもう引き上げて帰るとしよう。立てるかい?」

「え、ええ……すみません、……社長。ご迷惑をお掛けしてしまって」

「いいんだよ。なまえにはいつも世話になっているからね」

混乱していて危うく「中佐」と呼びそうになったのを何とか堪える。
立ち上がった時に膝が笑って再び倒れ込みそうになるのを支えられた。
一瞬だけ近くなった顔は目が笑っていなかった。

用意された車に乗せられて(座敷をぶち壊したのに女将はむしろこちらを心配してくれた)大東亜文化協會に戻る。
結城はいつも車中では黙っているが、今日は特にその沈黙が痛かった。
いっそ責めて欲しい。そうすれば、自分の中の甘えた気持ちを正すことができるのだから。

「あの、本当に……申し訳ありませんでした」

耐え切れず自分から口を開けば、結城は目を細めた。

「馬鹿か貴様は。体調管理も碌に出来んとはな」

「……申し訳ありません」

自己管理の甘さは認識していた。
謝って済むような問題ではないことも。もし今日の「仕事」が結城にとって重要なものであったとしたら自分は取り返しのつかないことをしたことになる。
幸い今日の「仕事」は料亭に対する定期的な顔出しだったから、なんとか笑い話にでもできそうだが当の本人からしたらたまったものではない。
敵方に自陣を攪乱させられるならまだしも、自陣の内側で味方に邪魔されるなど。

項垂れて唇を噛むと呆れたようにため息を吐かれる。
しかしいつもなら自分をどん底まで落ち込ませるそれも今日は自分を落ち込ませるには力不足のようだ。
別に反省してなくて落ち込めなかったわけではない。反省は痛いほどしているし、自分の至らなさに情けなくなってくる。
それでも落ち込めなかったのはいよいよ熱が高くなってきたのか意識が飛びそうだったからだ。
見えない誰かに頭を直接揺さぶられているような、がんがんとした不快感で上体を起こしておくのも正直辛い。
顔を歪めて努めてゆっくりと息を出し入れする。
なれどもやはり浅く早くなる呼吸が苦しい。

「調子は」

「え……?あ、いや、平気、では、ないです」

ひゅうひゅうと喋る度におかしな喘鳴音がする。
そう言えば風邪をひいた時はいつも息が苦しくなっていたっけと働かない頭がどうでもいいことを思い出す。
結城はそんな自分を静かに見つめてから、す、と目を逸らした。
ぼうっと車の扉に身体を預け窓ガラスに額を押し当てる。
大東亜文化協會まであとどれくらいだろう。
今から風邪薬を飲んで明日の朝には平熱に戻るだろうか。

「横になっておけ」

なれるもんならなりたい。今だって……、え?

「……あの、今なんて」

「耳までやられたか」

本当は聞こえていたがあまりに唐突なそれは俄には信じられない提案だ。大体こんな狭い車の中で上体を倒したらまず間違いなく、自分の頭は結城の膝の上。
先程の光景を思い出してやや、身体が震えた。
熱のせいだと思いたい。

躊躇っているとじろりと色のない視線が身体を貫く。
結城はいつもの地味な背広ではなく、流行りの洒落た背広を着ていて外見だけなら物凄く親しみやすそうなのに、と場違いに思う。
今の彼は顔と服装がまるきりちぐはぐだった。
暫く無言の押し問答が続く。先に目を逸らしたのはこちらだった。

「………………、あの、じゃあ、失礼します」

無言の圧力とでも言うのだろうか、その沈黙に何だか考えるのも面倒になって恐る恐るではあるがそっと上体を倒す。
結城の膝に頭の全重量を乗せても良いのか分からなくて軽く浮かせていたら、上から押さえつけられた。
思わず蛙が潰れたような奇声を上げたが結城は一切何も言わない。
その代わりに冷たい手が眼窩を覆う。
その手の温度が自分の熱い体温と混ざりあって徐々に温くなっていくのが心地よかった。

視界が奪われたことで、聴覚が鋭くなったのか、下にした方の耳から車の振動音が伝わってきて、意識を撹拌させる。
その上高くもなく低くもない絶妙な高さのそれは、一時の睡眠に抗う力を萎えさせる。
ぼんやりと意識が低迷していって、気付いたときには現の感触を失っていた。

闇の中で一度だけ冷たい手が髪を梳いた気がした。