全てが終わった後の話

結城が目を覚ましたのは、自室の扉の向こうで主張する気配を感じ取ったからだった。
またかとため息をつく。
それでもそれを放置しておく気にはどうしてもなれなかった。

静かに身体を起こして扉を開け放てば、そこには俯いた女が立っていた。
暗がりで分かりづらいが女の頬は確かに濡れている。
僅かに逡巡したがその顎を掬って目じりを拭ってやる。
それに呼応するかのように更に大粒の涙を流して泣き出した彼女は、飛びつくようにその身を結城に押し付けた。
夏の暑い夜のことだった。

***

彼女は名をなまえといい、詳しくは省略するが訳あって結城に拾われ一緒に暮らしている。
一般的な美醜から言えば程よい美しさを持ち、愛想もいいから人からよく好かれる女だった。
それだけでなく、物事によく気付きそれを自分の頭で考えている彼女を、結城は顔には出さなかったが認めていたのだ。
だから彼女をD機関の使用人として任じた。

だが、それが正解だったのか結城にはもう分からなくなっていた。

彼女は良くも悪くもただのただの一般人だった。
訓練生たちにとっては自分たちの生きられなかった時を生きている者として可愛がられ、彼女も訓練生一人一人と良好な関係を築いていた。それがいけなかった。
深入りしすぎていたのだ。
彼女は機関員たちとの関係を割り切ることができなかった。

長かった大戦が終わって、機関員たちは進駐軍の手が及ぶ前に散り散りになった。
なまえにも、そして結城にすらも何も告げずに消えた彼らに結城は何も思わなかった。
それが当然だと思ったからだ。
彼らには彼らの人生があるのだから。

けれどなまえは違った。
彼女は孤独を何よりも恐れていて、一人また一人と消えていく機関員に心を痛めていたようだ。
そして彼らが永遠に帰ってこないことに気付いては人知れず泣いて傷口を広げていることに、結城は気付いていた。

最後の機関員がいなくなった時、随分と静かになった大東亜文化協會でなまえは結城に向かって静かに笑った。

「もう、私と貴方だけになってしまいましたね」

何もかも諦めているのに、それでも助けを求めて彷徨う人間が浮かべる弱弱しい笑みだった。

機関員のようにどこへなりとも行けという結城に彼女は首を振った。
彼女にとってはもう、結城しかいなかったからだ。
進駐軍によるどんな酷い仕打ちよりも、彼女は孤独を恐れた。
それを知っていたから、結城もそれ以上何も言えず彼女を自邸に置くことを決めたのだ。

彼女は昼間は気丈に振舞った。
戦後の混乱でただでさえ生きにくい世の中で必死に生きるための知恵をつける彼女は何かに追われているような必死さを見せた。
いや、きっと彼女は本当に何かに追われていたのだろう。
自分にしか見えない幻影に。

それに怯える彼女は夜になると不安定になっていった。
部屋の隅で自らの身体を抱いて震えていたこともあるし、突然堰を切ったように泣き出すこともあった。

だが最も多かったのが深夜、助けを乞うように結城の部屋の前で蹲ることだった。
最初は結城も気付いていてそれを放置していた。
彼女と結城は違う個体だ。いつまでも一緒にはいられない。
来るべきその日までに、彼女は自分で生きる力を身につけるべきだと思ったのだ。

だが突き放された彼女は次第に昼間も不安定になっていく。
遂に心を病み始め、元気だった昼間ですら部屋に篭って震えるようになった。
そこまで来て、結城は初めて自身の選択を僅かに疑った。
彼女を突き放したことだけではない。彼女をD機関の使用人に任じた事、あるいは彼女を引き取ったことすら。
自分の選択が間違っていたのではないかと、彼は初めてその迷いに揺らいだ。

そして結城は彼女を自室に入れるようになった。
それから彼女は深夜、どうしても眠れない時は結城の自室を訪れるようになった。
季節が幾度変わっても、それは続いた。

***

いつまでも抱き着かせているわけにもいかず、彼女を自室に招き入れる。
なまえは何も言わず誘われるままに結城に従った。

なおも静かに泣き続けるなまえを落ち着かせようと自身の布団に座らせて向き合う。
明かりを点けようとするのを嫌がるなまえに、しかたなく月明かりを頼りに彼女の表情を窺った。
目を伏せて睫毛を震わせる彼女がその頼りない身体を結城に預けるから、結城もその重さに抵抗することなく、二人して布団に倒れ込んだ。

夏の夜のじっとりとした暑さが一層増した気がしたが、引き離すことはしない。そんなことはもう、できなかった。

「こわい、こわいの」

壊れた蓄音機のようにこわいこわいと呟く彼女は先の見えない不安に確実に蝕まれているようだった。
幸いにして衣食住は結城によって確保されていた。
彼女が言っているのはそんな物質的なもののことでないことくらい、明白だった。
彼女は恐れている。
いつか結城すらいなくなって自分が一人になることを。
結城があの機関員たちみたく、そこにいた形跡すら消していなくなってしまうのを。
止めようもない位に足早に過ぎていく時が、自分たちを引き離してしまうのを。

自分の上で泣くなまえをそっと横に下ろす。
彼女は名残惜しそうに結城の着物の合わせを握っていたが、結城がそのほっそりとした白い手に自らの手を重ねるとゆっくりと拘束を解いた。
彼女は結城の隣で暫くはただしゃくり上げるだけだったがその内に落ち着いたのか、時折鼻を鳴らすだけになっていた。
それ以外は、静かな夏の夜だった。

「夢を見たの」

不意にその沈黙を彼女が破る。
結城は答えなかった。けれども重ね合わせた手の、白い甲をなぞってやることで聞いていることを示した。
彼女も結城の指の先を軽く握り込んでそれに応えた。

「あそこにいた時の夢。みんな笑ってて、私はとっても楽しくて幸せだった。みんなはどうだったんだろう……」

暗闇の中結城はなまえに分からないように目を細めた。
それを聞いたところで、なまえにはもうどうすることもできないというのに。

けれどなまえとて、結城に答えを求めているわけではなかった。
本当は彼女も知っていた。
結城が自分を持て余しつつあること、それでも彼の不器用な優しさが自分を捨てるには邪魔過ぎることを。

それでもなまえは、寄りかかっていられる支柱が無ければ立っていられなかった。

重ねられた手にもう一方の手を重ねて、結城の手を挟む。
自然と結城の方を向く形となるが、彼は何も言わず、こちらも見ずに、ただ、天井を見つめていた。
交じり合わない視線が二人の行く末を象徴しているようでなまえは恐ろしかった。

「結城さん、私こわい。私もいつか一人になってしまうのかな…………」

震えた彼女の声は暗闇に溶けて消えた。
結城は何も答えなかった。その問いに答える資格があるのかすら分からなかった。

そっと首を回して彼女の方を向く。
眉を寄せて苦しそうな顔の彼女の瞳からは、かつての輝きは既に失われていた。

「……眠れ、今暫くは」

右手を隣で臥しているなまえの方にやる。
いつもは結われている彼女の射干玉の髪を一房掬ってなぞった。
結城の白い手から零れ落ちるそれをぼんやりと眺めていたなまえは目を伏せた。

「怖い夢を見てしまうかも。一緒に寝て欲しいの。駄目ですか?」

「…………好きにしろ」

ここに来て初めて薄く微笑んだなまえの眦に残った涙をもう一度だけ拭う。
その小さな頭を抱いてやることはしなかったが、代わりになまえが身体を寄せてくる。
弱弱しく身体を震わす彼女が夢の中ではせめて、安らかであれと願った。
結城にはもう、それしかできなかった。