次の日起きた時には田崎はもう隣にはいなかった。
でも、布団にはまだ彼の温もりが残っていて、風呂場からシャワーの音が聞こえてきたからさっき起きたんだろうなあ、とまだ眠い頭で考える。
このまま二度寝してもよかったが、昨日あまり田崎と触れ合えなかったせいか少し寂しい。
ふといいことを思いついて布団を蹴って、頑張って起き上がる。
朝が弱い私にしては珍しく、八時半に起きれた。
私はお湯に浸かりたい派だが田崎はそうじゃない。
だから多分今朝の風呂もシャワーだけなんだ。
脱衣所でぼうっと彼が出てくるのを待つ。
まるで痴女みたいだったけれど、多分田崎なら許してくれる。
彼はそれから5分も経たず出てきた。
私がいることに驚いたらしい、慌てて風呂場に引っ込む田崎が少し面白かった。
私はバスタオル片手にそれを追いかける。
田崎は明らかに困惑していた。
「どうかしたのか、なまえ」
何も言わず抱き着く私を抱き締めていいのか迷っているらしい田崎は私の背中で大きな手を撫でるように動かした。
「すぐ抱き締め返せ、ばか」
持っていたバスタオルで田崎を自分ごと包む。
彼の身体から滴る水滴がパジャマに吸い込まれて重みを増す。
恐る恐る、といった感じで私の背中に腕を回す田崎に唇を強請る。
彼は戸惑いながら私にそれをくれた。
私は田崎の逞しい身体に子どもみたいに抱き着いた。
「本当に大丈夫か?調子とか、悪くないか?」
あれからお互いに着替えて朝食を取ったが田崎は私の行動が引っ掛かっているらしくほとんど数分おきにそう聞いてくる。
「大丈夫だよ。昨日ちょっと寂しかったから補給しただけだよ」
同じ言葉をなんども繰り返して田崎は漸く納得したらしい。
「なら、いいんだが」と私の隣のダイニングチェアに座りなおした。
沈黙が流れる。こんな時テレビをつけない習慣が嫌になる。
「なあ、なまえ」
田崎の声がダイニングに転がる。
食洗器の音が妙に大きくて私はそれを聞き洩らしそうになった。
「……何?」
真剣な話らしい。
田崎は凄く怖い顔をしていた。それが嫌だった。
「結婚しよう」
時が止まった気がした。
田崎が私と結婚したいというニュアンスを時折話に混ぜ込むのには気付いていた。
私も田崎もいい歳だし、この歳で同棲していたらまあそんな感じになるのも分からなくもない。
でも、私は結婚というものが恐かった。
母が結婚で苦労したからだ。
母の夫、つまり私の父は酷い男だった。
気に入らないことがあると母に当たり、家族に当たった。
母はいつも泣いていて、昔は友人に自慢できるくらい美人だったのに私が高校生になるくらいにはその片鱗もないほど苦労が顔に刻まれていた。
母は寝物語に私に語ったものだった。
「結婚は地獄。結婚は墓場」と。
そんな私が結婚を忌むべきものと捉えるようになったのは至極当然のことで。
私は恐かったのだ。
田崎がいつか父のようになってしまうことが。
私がいつか田崎を憎むようになってしまうことが。
だから私は田崎とだけは結婚したいとは思わなかった。
真剣な眼差しで私を見つめる田崎に私は余すことなくそれを伝えた。
田崎にだけは嘘はつきたくなかった。
私は一生一人で生きていくつもりだと。
もう、ここも出ていくからどうか良い人を見つけて幸せになってほしいと。
本当は私も田崎のことは好きだった。
今まで愛してきた人の中で一番だと、自信を持って言えた。
だからこそ田崎を遠ざけたかった。
「馬鹿だな、なまえは」
田崎は笑った。
私は私の思いが馬鹿にされたみたいで腹がたった。
ほとんどヒステリックなくらいにその苛々を田崎にぶつける。
しっかりとしたその胸板を叩いても田崎はびくともしない。
それどころか手を引かれて抱き締められた。
「何があっても俺たちは変わらないよ」
「そんなの……分かんないじゃん」
「なまえ、何も変わらない。確かに俺たちは紙の契約で結ばれるけどそれは俺たちの今までがその紙に集約されただけだ。俺たちはこれからも今までを続けていけばいい」
「……でも、」
なおも反論しようとする私の唇を奪って強制的に黙らせた田崎は至近距離で微笑んだ。
その顔はなぜだか私に幸せだった頃の母の笑顔を思い起こさせた。
「そのままでいいんだなまえ。お前は電気をつけて眠ればいいし、風呂に入る時は湯船に浸かればいい。俺もお前も今までを続けていっていつか家族になればいい」
何も分からない子どもに言い聞かせるように田崎は私に噛んで含めるように言葉を紡ぐ。
「お母さんは『結婚は墓場だ』って言ったよ」
「俺はお前のためなら墓場だろうがどこだろうが生きていける」
「……私は正直、恐い。田崎が大丈夫でも私が変わらない保証なんてないよ」
「大丈夫。俺たちは上手くやってこれた。なまえが自分を信じられないなら、まず俺を信じて」
優しく笑う田崎の目元には隈が残っていた。
きっと昨日の残業は田崎の身体にまだ疲労を残している。
唐突に私はそんな彼を癒してあげたいと思った。
疲れて帰ってきた彼を優しく包んで癒す。
いつか夢に見た母のような美しい姿で。
それは本当は私が心の奥底で望んだ母であり妻の姿だった。
「私は、生きるのが下手だから多分田崎に沢山迷惑をかけると思う」
「ああ」
「田崎の一番じゃないと嫌だよ。嫉妬もいっぱいする」
「大丈夫、俺もなまえの一番じゃないと嫌だ」
「それでも、いいの?」
涙を堪えていたから最後の方は聞き取れないくらい声が震えた。
それでも田崎は私をきつく抱きしめた。
なぜか脳裏に過った母はとびきり美しく笑っていた。