それは7月も半ばを過ぎてそろそろ下旬に近づき、夏真っ盛りといった日の夕暮れ時だった。
夕方になっても煩い蝉時雨が無遠慮に耳を打ちその煩わしさに顔を顰める。
じっとりとした暑さにそれでも涼しい顔で食堂に入った甘利は、憂鬱な顔で窓枠に凭れ掛かり外を見やるなまえの姿を目に捉えた。
なまえは大東亜文化協會で雇われている一般人だ。
ある日突然結城がどこからか連れてきて、訓練生たちだけでは行き届かない日常の雑用を任されるようになった。
当初は警戒心の強い他の訓練生たちからは煙たがられていたようだが、彼女の仕事の手際はそれを黙らせるには十分だった。
今では大東亜文化協會の貴重な癒し成分として主に佐久間辺りから気に入られている。
彼女は感情を良く表に出す人間だった。
それも嬉しいとか、楽しいといった正の感情のみを。
出会ってまだ日は浅いが当の甘利でさえも彼女が負の感情を出している所は見たことがなかった。
だからこそ気になった。
彼女の顔をそこまで憂鬱たらしめている要因は何なのだろうと。
「どうしたの?」
「わ、甘利さん。びっくりしました」
「ごめんごめん。でも何だか悲しそうな顔してたからさ、気になって」
甘利の言葉にきょとんとした顔を返すなまえ。
その表情は幼く無邪気だ。
きっと自分たちとは対極にいるのだろう、と甘利は思う。
何もかもが自分たちとは異なるか弱い生き物。
甘利にとってなまえは自分より弱く、それ故護って慈しんでやらなければならない者だった。
「私、そんな顔をしてましたか?」
「うん。とっても悲しそうな顔。……何かあったなら、相談に乗るよ?」
ぱちりと片目を瞑ると、さあっと赤く染まる彼女の頬。
甘利は内心で苦笑した。
こんなに分かりやすい少女が全てを多い隠さなければならないD機関にいるなんてと。
甘利の内心に気付いていないなまえは少し迷ったようにちらちらと甘利の顔と食堂の床との間で視線を往復させる。
それほど話したくない事なら無理には聞かない、と甘利が言おうとした時、少女は息を吸ってぽつりと溢した。
「今年は花火大会、やらないんですよね」
「花火大会?」
それを聞いて思い当たるのはこの時期ならば隅田川のものか。
そう見当をつけてなまえに問い返せば彼女は微笑んで首肯した。
「……昔、家族と一度だけ観に行ったことがあるんです。人が多くて見えないと愚図る私を父が抱きかかえてくれました。甘利さんはご覧になったことありますか?」
「うーん……。どうだったかな、遠くから見たことは何度かあるけど」
本当は甘利は隅田川の花火大会にはあまり興味は無かったから意識してそれを見るということはしたことがなかった。
でも花火大会が好きだという彼女の思いを否定することもないだろうと誤魔化した。
彼女はその返答に曖昧に笑んでそれきり黙ってしまった。
二人の間に沈黙が落ちる。
甘利自身は沈黙など気にはならなかったが敢えて口を開いた。
「もうご家族とは観に行かないの?」
その質問に彼女は伏し目がちに笑う。成りそこないの笑顔だった。
「あ、いえ……。家族は、もういないんです。その花火大会の思い出が家族との唯一の思い出で」
「ごめん、辛いこと思い出させたかな」
「気にしないでください!今となってはそれもただの思い出ですから。……でも、やっぱりこの時期になると思い出してしまって」
甘利から視線を外し、窓の外、ずっと遠くを見つめる彼女の瞳には郷愁と寂しさが見て取れた。
甘利とて何とかしてやりたかったが、時代が時代だ。
昨年は7月の17日に川開きとして花火大会が挙行されたが、その直後の10月から施行された防空法によって灯火管制が行われるようになった。
大陸の方の戦況を考えると花火などで浮かれていられないというのもあるだろう。
花火なんて当分できる状態ではなかった。
「ごめんなさい、なんだかしんみりした感じになってしまって!お話を聞いてくださったお礼と言っては何ですが、今日は甘利さんの食べたいものをお作りしますね!」
取り繕うようにそう言って、夕飯の準備に厨房に向かっていく彼女の背中を見ながら甘利は頭を巡らす。
そしてある一つの考えに思い至って思わず口角を上げた。
我ながら自分の考えに思わず自分を褒めたくなるくらいには。
数日後、甘利とした会話の内容なんてすっかり忘れていたなまえは訓練終わりの甘利に声をかけられる。
何でも渡したいものがあるからついてきてほしいとのことだ。
丁度一つの仕事が一段落を迎えたところだったから、彼女は言われるがまま甘利について行く。
彼は訓練生の寝室の前で立ち止まると「ちょっと待っててね」と言い残して、中に入って行ってしまった。
突然のことで状況もよく把握できなかったが、とにかく「待て」と言われたのだからと壁に背を預けて待っていると、程なくして甘利が寝室から出てきた。
後ろ手に何か持っている。
「何ですか?」
「はい、これ。なまえさんにあげる」
それは大小様々で色とりどりの花を集めた花束だった。
驚きで目を丸くするなまえに甘利は悪戯が成功した子どものような得意気な顔をする。
「これ……」
「花火じゃないけどさ、花屋に行って似てる花をありったけ買って来たんだ。本当は本物の花火でも買えたらよかったんだけど、さすがに見つからなくってさ。ごめんね、本物じゃあなくて」
「……びっくりしました。でも、すごく嬉しいです……!ありがとうございます!」
花束が潰れないように、それでもしっかりとそれを胸に抱きかかえるなまえの頬は興奮と喜びからか薄らと紅くそまっていて甘利は微笑ましくなる。
その頬を優しく撫で上げると、驚いたように身構えられて苦笑する。
本当にくるくるとよく表情が変わる。
胸の内で暖かく擽ったい感情が寄せては引いていく。
なまえを見ていると忘れようとしている感情が甦ってきそうになる。
人間として自然に持っている感情が。
気が付いた時には口にしていた。
「いつかさ、一緒に観に行こうよ」
「え?」
「花火。全部終わって、俺たちの仕事が無くなったら」
甘利にとって花火大会は特段興味の湧くような行事ではなかった。
だから一般人だった頃は花火大会ごときに騒ぐ周りを冷めた目で見ていたものだ。
だが彼女となら。
じわりと蒸した夏の夜空の下、大輪の火花に目を輝かす彼女の隣で同じものを見られたら。
それがいつになるのかは甘利にも恐らくなまえにだって分からない。
もしかしたら一生叶うことのない約束になるかもしれなかった。
それでも甘利はそういう約束をすることは悪くないと思った。
いつかあるがままの自分でなまえに向き合えたらいいと、そう思った。
「……はい。楽しみにしてますね」
「約束だよ」
絡め合う小指に微笑みあう。
いつかのその時、二人で笑い合えればいい。
こんな時代でも、それくらいの願いを持ったって罰は当たらないだろう。