風戸という男は四十を過ぎても嫁を取らなかった。理由は多々あったが、第一に嫁などおらずとも彼の生活は何ら不都合がなかったということがあった。むしろ嫁を取ることで今までの生活を邪魔されることの方が風戸にとっては害悪だったのだ。
それでも軍人がいつまでも身を固めないのは下衆な勘繰りをされても仕方がない。
風戸に特に目を掛けている上官も気を揉んだのか、見合いの話をもってきた。
曰く「帝国軍人ともあろう者がいつまでも身を固めないのは言語道断、身の周りの世話をさせるためにも所帯を持て」と。
風戸自身は上官の助言に反論するつもりは露ほどもなかったが、やはり嫁を取る気にはなれなかった。
だが、上官の面目を潰すわけにもいかず彼は見合いの席を設けてもらうこととなる。
それが風戸が後に妻とする女と出会った経緯であった。
見合いの相手はこの席の世話人である上官の友人の娘。
陸軍少将であり、風戸自身有能であると評価している方のご息女だった。
噂では気立てもよく貞淑で軍人の妻として申し分ないらしい。
四十を過ぎて漸く妻を娶ろうかと考えた自分にはもったいないくらいの相手だろう、と風戸は考える。
―何かある
よほどの器量なしかあるいは性格に難があるのかもしれぬ。
裏を勘繰りながら向かった見合いの席にいたのは、風戸の危惧に反してうら若く色白で器量の良い娘だった。
ほっそりとした気品のある顔立ちを際立たせる知性的な目は黒々と輝いて若々しさを強調させている。
白い肌は傷一つなく手塩にかけて育てられたのであろうことが窺えた。
やや緊張しているのか俯きがちの薄らと上気した頬も慎み深さを示しているようで一見好印象だ。
彼女のあまりの見目の良さに少し意外に思うのと同時に、これはいよいよ厄介な女を押し付けられたのではと気が削がれる。
これだけの器量と、噂の貞淑さがあるならば引く手あまたであろうに。
世話人である上官から紹介がされる。
娘は名をなまえといった。
両親は彼女を深く愛しながらも厳しく育てたようで自慢の娘といった様子だ。確かになまえのちょっとした所作などからは気品の高さが窺える。
彼女の父親は有能でありながら四十を過ぎても所帯を持っていなかった風戸を不審がっているようだった。大切な娘をどこの馬の骨とも知れぬ男にやるつもりはないらしい。母親の方は風戸のことを気に入ったのか頻りになまえを嫁にと勧めている。
風戸がなまえの父親に見定められていると感じたのか世話人の上官は風戸がいかに有能で将来性のある男かというのを力説した。
流石に友人の紹介とあってかなまえの父親も少なからず心動かされたところはあったらしい。
見合いの席が進むに連れて風戸への視線は次第に柔らかいものへと変わっていった。
その間もなまえは一言も話さずにやや俯きがちに周囲の話を聞いていた。一度だけ控えめに笑い声をあげたが鈴の転がるような澄んだ音だった。
後は当人同士でと、二人きりにされて恥ずかしそうに俯くなまえは風戸から見ても割と好印象だった。
「お国のために日々御勤めご苦労様でございます」
この席に来てから初めて口を開いたなまえだったが、その声は高すぎもせず低すぎもせず実に耳に心地よい声だった。
本当に見目だけならば全く問題はない。
後はいかにしてこの女の「化けの皮」を剥ぐかだ、と風戸は内心で舌なめずりをしたがそんなことはおくびにも出さない。
「自分は帝国軍人でありますからして、当然のことです」
あくまで体制に忠実で愚直な一軍人を装うのだ。
幸い彼は他者を欺いたり誘導したりすることに手慣れていたから、年端もいかない小娘を欺くことなど造作もなかった。
「…………」
会話が続かない。
面倒だったが上官の手前このままというわけにもいくまいと風戸は適当に質問を考える。
「なまえさんは普段どのようなことをなさっているのですか」
「わたくしですか?刺繍や書を少々たしなんでおりますわ」
「それはすばらしい」
「でもわたくし本当は武術を学んでみたかったのです」
意味が分からず怪訝な表情をする。
これが貰い手のない理由かと内心で顔をしかめた。
女だてらに武術など、きっと取り繕っているだけで気の強い女に違いない。
そんな女はごめんだった。
「……それはまたどうして」
「わたくし本当は男に生まれて軍人になりたかったのですもの」
「軍人ですか」
「ええ、お国のために尽くしたくて。幼い時はわたくしも軍人になってお国のために奉仕するのだと申して父を困らせたものでした」
困ったようにくすくすと笑うなまえに風戸はふむ、とやや感心する。
報国の精神は風戸にとっては非常に好印象だ。それが男であろうと女であろうと。
今までのなまえの印象がやや転換する。
風戸はなまえに少しだけ好感を持った。
それ以後の席では風戸はできるだけなまえの目に好印象に映るよう振舞った。
あたかもなまえに心を開いているかのように。
できるだけ女の好みそうな話題を振ってやり、適度に相槌を打って反応を返してやる。
なまえは大切に育てられた女にありがちな良い意味での世間知らずさで風戸の優越感を擽った。
それでいて鼻につかない程度には知識を持ち、教養もある。
見合いの席がお開きになる頃には風戸はすっかりなまえに対する評価を改めていた。
少し変わり者なだけで見目も良く気品も申し分ない。ただ見目がいいだけでなく、内面も備わっている。連れ歩いても恥をかくこともあるまい。
そして何よりなまえの「家」も風戸にとっては魅力的であった。なまえの父親を後ろ盾にすれば自分の構想する諜報機関も上に通しやすくなるやもと目論んだのだ。
数日と立たず風戸は世話人である上官に承諾の旨を返す。
なまえの方も承諾したと聞かされて風戸は知らず口角が上がるのを感じた。
祝言までにはまだ間があったが、その間に何度かなまえと会う機会が設けられた。
おそらくは年の離れた二人を少しでも打ち解けさせようという魂胆であっただろうが、風戸もなまえと更に心安くなっておいて損は無かったからそこでもなるべくなまえに好意的に接した。
大抵は二人きりにされて少しの間世間話をするくらいであったが、許されれば時折庭に出て二人で散歩したりもした。
段差などで躓かぬよう差し出された風戸の手を恥じらいながら取るなまえは純粋に可愛らしいという感情を風戸に呼び起させる。
いつの間にか損得勘定抜きになまえに会うのを楽しみにしている自分がいた。
そうして何度か逢瀬とも呼べぬような時間を設定された後、祝言の日取りは大安を選んで決められた。
着々と進んでいく準備に漸く嫁入りの実感が湧いたのかなまえは風戸との逢瀬の時にはますます恥じらうようになり、一方の風戸はなまえのその恥じらう顔を気に入っていた。
なまえは若い生娘にありがちな異性に対する内気さを余すことなく風戸に対して発揮していた。
何度「逢瀬」を重ねてもいつも会話の初めの方はぎこちなく、薄らと頬を染めていた。
祝言を迎える前の最後の「逢瀬」の日などは恥じらって最後まで一言も口を開いてくれなかったくらいである。
風戸もこれには苦笑を隠せず、仕方なくその日はなまえと連れ立って庭の散歩をした。
それでも別れ際に「次に会うときは我々はめおととなるのです」と言ってやれば、なまえはみるみる頬を染めながらか細い声で「ええ」と微笑んだ。
その日は気持ちのいい晴れやかな日だった。
仲人を頼んだ上官に「幸先がいい」と言祝がれる。
それに一礼していると表で歓声が上がった。なまえが到着したようであった。
花嫁衣裳を纏ってやや緊張したような白い顔のなまえはとても美しく、世にこれほどの美しいものがあることを風戸は知らなかった。
伏し目がちに風戸の顔色を窺うなまえは、風戸に微笑まれたと気付くと、薄らと頬を赤らめ幸せそうに微笑した。