佐久間には陸軍士官学校時代の同期の中でも特に忘れられない男がいた。
陸軍幼年学校から士官学校に上がってきたその男は名をみょうじといい、良くも悪くも周囲から浮いた存在だった。
まずみょうじという男は非常に冷めた性格をしていた。悪く言えば冷淡で無情だった。
同室の仲間が弱音を吐けば、他の仲間が励ましている中それを冷ややかな目で見て切り捨てるような言い方をする。
周りが報国の志を熱く語っていたとしても、その集団に加わることなくただ黙って本を読んでいる。
戦術の組み立て方一つとってもみょうじは常に一番合理的で非情な選択をした。
同期たちはそんなみょうじを敬遠したし、みょうじも周囲と心安くなる気はなかったらしい。
彼はいつも一人でいた。
それでもみょうじは優秀で上官や他の上級生からの覚えはよかった。
厳しい訓練を顔色一つ変えずにこなし、上官や上級生からの時に理不尽ですらある命令にも完璧に応えていたからだ。
いつしか彼は孤高の存在として周囲から遠巻きにされるようになるが、佐久間だけは違った。
佐久間はみょうじの周囲を遠ざけるような言動があまり好きではなかったのだ。
それを矯正させようと思ったわけではないが、せめて周りに溶け込む努力はするべきだと思ったから、彼は積極的にみょうじの傍へ寄っていった。
最初はみょうじも鬱陶しがってその小奇麗な顔をあからさまに歪めたりしていたが、佐久間がそれでもめげずに近づいてくると分かると次第にため息をつきながらも一人分の席を空けるようになった。
それを見ていた他の同期たちも佐久間を介してなんとなくみょうじとそれなりに打ち解けたから、士官学校を卒業する頃にはみょうじにも所謂「莫逆の友」のようなものが幾人かできていた。
卒業の日の朝佐久間はみょうじに「ありがとうな」と言われたことを終ぞ忘れたことがない。
何に対する礼かなど聞くだけ野暮だった。
士官学校を卒業して幾年か経ち、佐久間は中尉にまで昇進していた。
同期とは定期的に連絡を取り合っていたが、みょうじだけは卒業から今まで全くの音信不通だった。
佐久間は時折みょうじのあのほっそりとした長い手足や、男にしては妙に艶のある赤い唇を思い出しては、何か邪な感情を抱いているようでそれを恥じた。
そうしてまた少し年月を経て、佐久間はD機関と陸軍との連絡役の任を拝命した。
いや、表向きは連絡役だが本当の任務はD機関の粗探しをして機関を潰すきっかけを陸軍に報告することだ。
失敗すれば自身の首も危ういそれにやや憂鬱さを感じながら佐久間は指定された場所―大東亜文化協會へと向かう。
この任にはもう一人、別の部署から同じように派遣される者がいるとは聞いていた。
それがまさかみょうじだったとは。
「お前、みょうじじゃあないか!」
「やあ、佐久間。お前も機関の連絡役を押し付けられたのかい?」
結城の執務室にいた意外な人物に佐久間は上官の前であることも忘れて声を上げた。
ふんわりと、ややウェーブのかかった髪を払って口端を吊り上げたみょうじに相変わらず皮肉げに笑うものだと佐久間は呆れた。
こうして佐久間とみょうじはD機関と陸軍との連絡役としての任についたわけであったが、機関での二人の立ち位置は対照的であった。
軍人であった時の名残がいつまでも抜けない佐久間に対して、みょうじはまるで軍人であったことなどなかったかのように振舞った。
これには三好を始めとした訓練生たちもやや驚いたようで、みょうじは彼らから「軍人としては」まともな者が来たと言われるようになる。
彼らはすぐにみょうじと打ち解けた。
みょうじもみょうじで彼らに負けないくらいの能力とそれに裏打ちされた自負心があったから、彼は連絡役というよりもむしろ訓練生に近い雰囲気を纏っているように佐久間には思えてならなかった。
そして佐久間にはそれが俄かには信じられなかった。
幼年学校から軍の考え方に浸り続けていたはずみょうじがなぜ簡単に自身の根幹ともいえる思想を捨てられるのか。
いつか詰問したことがある。
佐久間には訓練生に溶け込むみょうじの姿がそのまま消えてなくなってしまいそうで恐ろしかった。
「お前はこの状況になぜ耐えられる?俺たちは共に陛下のためにこの身を捧げると誓った者たちだぞ」
「君はとても実直な男だから割り切れないんだろう。こんなもの割り切ってしまえば簡単だよ」
焦燥感すら浮かべる佐久間をきょとりと見返した後、みょうじは肩を竦めて事も無げにそう言い切った。
逆になぜお前はできないのだ?と問われている気がした。
そうして佐久間は初めて思い出した。
士官学校時代にみょうじが言っていたことを。
―頭と身体は簡単に切り離すことができる
あの時は何を当然のことをと思っていたが、みょうじはきっと本当に自分の身体を隅々まで自分の意思で操ることができるのだろう。
いや意思すら必要ないのかもしれない。
彼は自分の身体を自在に操ることに長けているのだ。
一年間。
一年間という期間、佐久間とみょうじは底知れない訓練生たちと共に過ごした。
佐久間には訓練生の在り方は到底理解できるものではなかったが、みょうじは彼らに対しても無関心を貫いていた。
彼は自分の周りにあるもの全てを平坦に感情を抜きにして見ることを徹底していた。
一度なんか訓練生たちが天皇制の正統性と合法性なる議題で議論を打っていた時も、それを最初から聞いていたにも拘らず彼は何も言わなかった。
それどころか一般的な軍人の視点が欲しいと訓練生に乞われたらしく、自ら議論に参加していて、これには佐久間も更に激昂して危うく手が出そうになった。
というより彼の胸倉に掴みかかったから手は出ていたわけだが。
「おい、何をそんなに怒っているんだよ」
いきり立つ佐久間に意味が分からないといったようにみょうじは佐久間の腕を取って外させる。
体格は佐久間の方が圧倒的に良いにも関わらずいとも簡単に外された手に、そういえばみょうじは武術に優れていたと回らない頭の片隅で思い出した。
「貴様、帝国軍人ともあろう者が、恥を知れ!」
「はあ?くだらないな。自由な言論の封鎖は組織の衰退だ。この国を想っているなら全ての可能性を洗っていく方が私は得策だと思うがな」
同じ軍人同士であるにも関わらず相容れない二人に訓練生たちは面白いものを見たとでも言うように、にやにやしながらこちらをつぶさに観察している。
その視線が鬱陶しくて佐久間の苛つきは更に増していく。
結局その睨み合いは結城が来るまで続けられた。
それ以来佐久間とみょうじの間には決定的とも言える溝が生まれた。
いや、佐久間の中に一方的な溝が生まれただけだ。
事実みょうじの方はそんなやり取りなどなかったかのように振舞ったのだから。
そして佐久間はみょうじと個人的に話すことをやめた。
佐久間とみょうじが次に言葉を交わしたのは、彼がゴードン邸での一件から結城にスパイの勧誘をされた時だ。
彼は「駒にはならない」という自分の選択を後悔してはいなかった。ただ、誰かにこの曖昧な寂寥感を吐露したかった。
みょうじは佐久間のそれにすぐに気付いてくれて、彼の馴染みの料亭で誰にも何も聞かれない席を一つ用意してくれた。
佐久間は実に数カ月ぶりにみょうじと心行くまで会話した。
みょうじは何も言わず佐久間の気が済むまで話を聞いた後、徐に口を開く。
「なあ佐久間」
「なんだ」
「私はあそこがすごく心地よく感じる。彼らの私たちに対する無関心さは士官学校や軍に所属している時にはなかったものだ」
「お前、まさか」
その先は聞きたくなかった。
みょうじが自分と同じように結城から勧誘を受けていたのは知っている。
その場では彼がそれを笑って受け流していたのも。
だがもし彼の気持ちが靡いていたとしたら?
「私はあそこで訓練を受けようと思う」
「お前正気か!あそこにいても駒として使い潰されるのがオチだぞ!」
「それがなんだっていうんだ?元々軍人だって国家のための一駒に過ぎない。同じ駒なら私は自分の決めた道を歩むさ」
「いい加減に……っ」
胸倉を掴もうとして、間に挟まれた机が邪魔なことに気付く。
怒りで我を忘れそうな佐久間をお得意の冷めた目で見て、みょうじは続ける。
「これは私の人生だ。どう使うかは私が決める」
「違う!俺は『家族』として……!」
困惑する佐久間をみょうじは鼻で笑った。
その顔はみょうじがかつて士官学校で孤高の存在であった時のそれによく似ていた。そして訓練生たちのものとも同様に。
みょうじは聞き分けのない子どもを見るような目で佐久間を見て目を細めた
「はっきり言って私はお前たちを家族と思ったことなど一度もない。士官学校時代もお前たちが訳の分からん毎度の儀式をして感涙しようが私にはちっとも響かなかった」
「みょうじ、貴様っ……」
「私は家族が欲しくて軍に入ったわけではないし、結果として私には家族など必要ないのだと分かった。私は私だけの力でどこまでやれるか試してみたい」
その黒々とした瞳には確固たる決意のようなものがあって、その目の力強さに佐久間は危うく目を逸らしそうになった。
彼は他の同期と同じくらいみょうじのことを「家族」かそれ以上の存在と捉えていた。
それはみょうじも同じだと思っていたのに。
「俺のことも、最初から『家族』とは思っていなかったというわけか」
思っていたよりも恨みがましい声が出て、佐久間は己に失望した。
軍人たるものいついかなる時であっても冷静でなくてはならないのに。
「ああ。だってお前と私は赤の他人同士だろう」
何を当然のことを、といった顔で呆れたように唇を吊り上げるみょうじとは自分は永遠に分かり合えない。
佐久間はD機関での一年間の中で、自分の頭で考えることを学んだ代わりに大切な「家族」を永遠に喪ったのだと気付いた。