終戦から数カ月、皆散り散りになった。
D機関どころか陸軍そのものが解体され、私たち「地方人」はただの一般人として処理されていくのを待つ身となってしまったから、皆進駐軍の手が及ぶ前に自らの足跡を全て絶っていなくなってしまった。
全てを捨てて「ここ」に来た私には戻る場所などなかったが、かと言って進むべき場所も見つけられなかった。
私は他の訓練生のように割り切ってD機関を後にすることができなかったのだ。
混乱の中で生きる意味を見失って立ち尽くしていた私に手を差し出してくれたのは神永だった。
「生きる場所がないんなら、俺と生きてみる?」
皮肉気に口端を歪めた神永はその手を取った私を引き寄せて抱き締めた。
背中に回された手が僅かに強張っていたことは私と神永だけの秘密だ。
私たちは夫婦としてなんとか篤志家の家に間借りして二人で暮らし始める。
家主はとてもいい人でこの混乱した時代に若い人は貴重だからと碌に賃料も取らずに私たちを住まわせてくれた。
私はその好意が酷く苦しくて、神永が大家と話をつけている間ずっと俯いていた。
大家が体調を心配してくれて、それに神永が誤魔化すように「家内は身体が弱くて」と苦笑したのを私は黙って聞いていた。
日々の暮らしを乗り切るために私たちは働かなければならなかった。
D機関に来る前から貯めていた金はお互いなるべく使わないようにしようと約束し合った。
それはいつか私たちが一人で暮らす時に使うべきだと。
神永は何でもできたが、どうしても仕事がない時は日雇いで道路補修などをしているらしかった。
私は進駐軍の慰安の仕事でもしようと神永に言ったが神永はそれに断固として反対した。
結局私は家で内職のようなことをして家計の足しにせざるを得なかった。
私たちは表向きはおしどり夫婦として近所の人に受け入れられていたが、実際は寝室だってばらばらであった。
普段の会話も夫婦とは程遠いもので色気も何もなかったけれど、元々お互いにお互いのことを想っていたわけではないから気は楽だった。
それでも神永は時折思い出したように私を抱いた。
それは欲求の解消のためだったのかもしれないし、もしくは夫婦として振舞うためのカモフラージュだったのかもしれない。
けれどそれは儀式のように定期的に訪れた。
神永は傷ついたような顔で私を抱いて、私はそれが居た堪れなくていつも目を瞑っていた。
神永も私も傷つくために、あるいはすでについた傷を忘れないためにこの儀式をしているように思えてならなかった。
けれども私はこの儀式がないと私たちはお互いに存在を保っていられないのではないかと訳の分からない危惧をしていて「止めたい」とは終ぞ言えなかった。
そして季節が幾つか過ぎて私は子を孕んだ。
抱かれている以上その可能性が無いとは言えなかったが、神永と私の間にまさか子が生まれようとは想像もつかなかった。
呆然とする私に神永は「悪い」と言った。
何に対する謝罪かは分からなかった。
お腹の子は本当は堕ろそうと思っていた。
この混乱の最中に人間として不完全な私たちが子どもを育てられるとは思えなかったからだ。
不幸の子を新たに作りたいとは思えなかった。
だが、意外なことにそれを神永に話すと彼は激昂した。
本気で怒った神永を見るのはこれが初めてで、私は少し、いやかなり驚いた。
そんな私を見て神永は気まずそうに目を逸らして舌打ちする。
そして私の側にそっと寄り添って、まだ生命の鼓動も聞こえない私の腹をそっと撫で上げた。
「俺が言えた義理じゃないのは分かってる。身勝手なのも、分かってる。でも、産んでくれないか」
それは懇願だった。
私は彼に私は良い母親にはなれないと言った。
神永は「じゃあ俺が良い父親になってみせるさ」と笑った。
十月十日、神永は私を慈しんだ。
家の外だけでなく、家の中でも。
徐々に膨らんでいく腹を撫でさすり、時折耳を当てては幸せそうに微笑んだ。
それは「あそこ」にいた時には見たことのない表情だったから、私は驚くと共に安心した。
神永にもそんな人間らしい顔ができるのかと。
子どもは家で産んだ。
産気づいた私に大家から近所の人からあちこちの人が心配して様子を見に来てくれた。
神永もそわそわと落ち着きがなく、あまりの落ち着きのなさに産婆から「もうすぐ一児の父親になる者がもう少し落ち着け」と怒られていた。
周りの人々の心配に後押しされながら半日ほど私は産みの苦しみと格闘して、遂に我が子の産声を聞いた。
我が子を産湯に浸ける産婆は元気な男の子だと言ってくれた。
初産の疲れに何も言えないでいると廊下が騒がしくなって障子がすぱんと開け放たれる。
神永が立っていた。
「騒がしい」と怒る産婆を他所に神永は子どもと私どちらに駆け寄ろうか一瞬迷って私の方へ寄ってくる。
その様子に気を遣ってくれたのか産婆が神永の腕にそっと赤子を託す。
壊れ物を扱うような慎重な手つきで赤子を抱く神永は、泣いていた。
「ありがとうな」
壊れた蓄音機みたいに神永はただそれだけ繰り返した。
それを見た私も何だか泣けてきて、私たちは子どもみたいにわあわあ泣いた。
そしたら赤子も泣いてしまって、産婆に怒られた。
無事に初子を生んだ私たちを言祝いでくれた人たちも三々五々散ってゆく。
ようやく二人きり(実際には三人だが)になった私の隣に寝そべって神永は徐に口を開いた。
「子どもが生まれるって聞いてずっと考えてた。俺がお前にできることは何だろうって」
私はそれを黙って聞いていた。
返事がなくても私が聞いていることは分かっているらしい、神永は構わず続ける。
「俺はもう『神永じゃなかった』俺には戻れないし、戻る気もない。子どもができたからっていうのもあるけど、それ以上にお前と、一緒にいたい」
私が何も言わなくても神永は喋り続けた。
神永が私に対して抱いていた想いを、彼は全て吐露したいようだ。
聞いていられないくらい優しさに満ちたそれに、私は耳を塞ぎたくなった。
「お前の人生にの中に、俺もいたい」
天井を見上げたまま、神永は何でもないようにそう締め括った。でもその声が震えていることに私は気付いている。
「……私は、」
「ああ」
「貴方は私を憐れんでいたのだとばかり思っていた」
「最初はそうだった。でも、今は違う」
上体を起こした神永は赤子を抱く私を優しく、赤子が潰れないように抱き締めた。
大きな身体だと思った。私を、そしてこれからは私たちを守り、慈しんでくれる父親の身体だった。
「ここから始めたい。俺に生きる意味をくれたのはずっとお前だ」
二人で暮らし始めて私は初めて神永の目を見たような気がした。
深く輝いている瞳の中には、確かに甘く優しい色が見えた。
返事の代わりに彼の目元に唇を落とした私に神永は照れたように笑いかける。
微笑み返す私の胸の内には確かに今までとは違う気持ちが生まれていた。