散歩

考えがまとまらない時というのは誰にだってあるだろう。
いつも明瞭で整頓された思考でいることを心がけているなまえにとってもそれは同じだ。
今日はなんとなく心がささくれ立って考えをまとめる機能が低下している。
考えをまとめようとして苛々と机を指で叩いても、貧乏ゆすりをしても、まとまらないものはまとまらない。
そんな日もあるから今日は早く休んで明日からまた頑張ろうとでも割り切れればいいのだが、何分D機関の訓練生であるなまえには休んでいる暇などない。
自分の調子の管理は自分で行わなければならず、それができていない者は周囲からスパイ失格の烙印を押されても仕方がないのだ。

そのことにどれだけ焦っても焦っても考えはまとまるどころかどんどんと離散していく。
本当は今日中に目を通しておきたかった本が幾つかあったのだが、今日はもう無理かもしれない。
勢いよく本を閉じて(貴重な本だからばれたら中佐辺りから睨まれるだろう)、天に向かって罵詈雑言を浴びせる。
肝心な時に限ってこの体たらくだ。自分の情けなさに苛つきが募る。
とにもかくにも早く状態を元に戻さなければ。
暫く気分転換にでもなるかと何をするでもなく大声で天を罵っていると、資料室の扉が向こう側から開く。
迷惑そうに目を細めてこちらを見ているのは三好だった。
どうやらなまえの声は資料室の外まで漏れていたらしい。
それはそれで少し恥ずかしかった。

「おい、うるさいぞ」

「……三好」

「一人で何を喋っている?廊下の方まで聞こえていたぞ、気持ち悪い」

「考えがまとまらなくて苛々してるのよ。それを吐き出してるところ」

肩を竦めるなまえに三好は呆れたようにため息をつく。
そのため息にすらなまえの心は苛立ち、心に逆剥けのようにじくじくとした拍動痛のようなものすら感じさせる。

「迷惑だから余所でやれよ」

「煩いわね。貴方が別の場所に行けばいいんだわ」

「僕だってここに用事があるんだ」

「あっそ。じゃあいいわよ。私がここを出ていけばいいんでしょう」

まさに売り言葉に買い言葉。
なまえは普段三好を始めとした他の訓練生たちとは良好な関係を築いていて、こんな風に言い合いをすることなど全くと言っていいほどない。
三好もいつもと違って刺々しいなまえに少し驚いたのだろう。
その形の良い眉を跳ね上げる。

そして三好は、出していた本を乱暴に片づけてから三好を見てこれ見よがしに鼻を鳴らして資料室を出ていこうとするなまえの腕を取る。
腕を取られて咄嗟に外そうとするなまえを落ち着かせて三好は彼女と目を合わせる。
きっと三好を睨むなまえをそれ以上に鋭く睨む三好に彼女は少し畏縮したようだった。

「……何よ」

「……気分転換だ。付き合え」

「はあ?」

「貴様の調子が狂うと、こっちも気分が悪い」

「私のために一緒に気分転換してくれるわけ?」

「勘違いしないでもらいたいんだが」

三好はなまえの方を見向きもせず口を開く。
三好は少し顔を顰めているがなまえには分かる。

「僕は別に貴様のために付き合うわけじゃあないからな。僕も偶々外に出る用事があっただけだ」

「そっか」

「ああ、そうだよ」

彼が無理矢理苛々している風を取り繕っているのが。
彼のその分かりにくい優しさがなまえは好きだった。

「三好」

「……なんだ」

「ありがとね」

「……別に」

ふい、と顔を背ける三好の耳が赤くなっているのに気付いたのも多分なまえだけだ。
資料室には三好にとっては幸運なことに、彼となまえしかいなかったのだから。

気分転換と言っても男である三好と女であるなまえとでは、その仕方も違うだろうということで結局二人で散歩することとなった。
連れ立って歩くことなどほとんどない二人は何となくぎこちなく並んで歩く。

「……ねえ」

「なんだ」

「なにか喋ってよ」

「はあ?喋りたいなら貴様が喋れよ。僕は静かに歩きたいんだ。相槌くらいは打ってやるよ」

「私だってあんまり喋ることないわよ。でも男と女が黙って歩いてたら不自然でしょう」

呆れたようにため息をつけば、逆に嘲笑される。

「考え過ぎだろう。僕と貴様が恋人に見える人間がいたらそれこそ目が腐ってる」

「ほんっと貴方って素直じゃあないわね……っわ?」

言い合う二人の間を急に突風が吹いてなまえの髪が掬い上げられるように靡く。
咄嗟のことで髪を押さえるが間に合わなかったらしい。
風が止むころにはなまえの髪はめちゃくちゃになってしまっていた。

「あーあ折角綺麗に結んだのに……」

残念そうに自身の髪を結わえていたリボンを引っ張って取ってしまうなまえ。
もう今日は何をやっても上手くいかない日なのだろう、諦めてしまった。
ため息をついて「もう帰ろう」と三好に向き直ろうとするとなまえの様子をじっと見ていた三好に「ちょっと来い」と手を引かれる。
連れて来られたのは公園のベンチだった。
手早く座面を払った三好に無理矢理座らされて手の中にあるリボンを奪われる。

「ちょっと、どうしたの?」

「じっとしてろ」

なまえの後ろに回った三好は繊細な手つきで彼女の黒髪を掬い上げると器用に編み上げていく。
三好は手先の器用な男だったから、なまえの髪を無理に引っ張ることもなく彼女の髪を黙々と結い上げる。
一度も髪を引っ張られる痛みを感じることもなく数分もすれば簡易的ではあるが綺麗な編み込みが出来上がっていた。

「これでいいだろ」

「凄い。貴方って何でもできるのね」

「はあ?これぐらい簡単だろ」

「うん。……ありがとね」

何を当然のことをと顔を歪める三好になまえは少し恥ずかしくなってしまって俯いてしまう。
三好は椅子の背もたれに手をついて身体を支えると、なまえの背越しに彼女の顔を覗き込んだ。

「貴様は黙っていればそれなりに見られるんだから、もっとそういうのを磨くべきだ」

「……はあ?」

「髪の結い方ももっと研究しろ。見ていれば貴様はいつも同じ髪型をしている」

他にもあれはああだ、貴様のここが良くないなど自分の日ごろの欠点を論われてぐうの音も出ないほど批判される。
思い当たる節はままあったものの、なぜ出先でこんなことになっているのか。
なまえの苛々は再燃しだす。

「何よ、ナルシシスト。そう思ってるのは貴方だけよ」

「煩いな図星のくせに。僕が思ってるってことはあいつらも思ってるってことだ」

「貴方ってほんと失礼ね…………!」

一瞬険悪な雰囲気が流れて二人の間に火花が散る。睨み合いは、しかしその一瞬で終わってしまう。二人ともそれが無益なことだと分かっているからだ。

「本当に見た目だけは悪くないんだ。勿体ないことをするんじゃあない」

諦めたようになまえの髪を弄んで三好はため息をつく。その顔は嫌悪や軽蔑というよりもっと、できの悪い我が子を慈しむようなそんな表情で。

ぼうっとなまえはその表情に見惚れる。
三好でも、そんな表情ができるのかと。

「行くぞ。……ほら」

「え?」

目の前に手が差し出される。
驚いて三好と目の前の手を見比べていると、焦れたようにその手がなまえの手を取って引っ張る。
座った時と同じように無理矢理立たされて、無理矢理歩かされる。
なまえの歩調などお構いなしに歩く三好の耳はまた赤らんでいた。

「三好、耳赤いよ」

「……うるさいな」

繋いだ手の温度は温かくて、偶にはこんな日もいいかなんて思ってしまった。
なまえの苛々はいつの間にか消えていた。
帰ったらもう一度、考えを纏めなおすことから始めてみよう。

でもその前に、もう少しだけ。
今は三好との散歩を楽しむのだ。