滬西地区は光と影が色濃く分かれている。
どんな街でも多かれ少なかれ暗部はあるだろうが、ここは特にそれが顕著だった。
ネオンに溢れ人々で賑わう大通りがあるかと思えば、日々の糧に餓える者、阿片中毒者、浮浪孤児が互いを排斥しあって暮らすようなまさにこの世の最底辺の掃き溜めとも言える場所とが共存していた。
かくいう福本も塩塚朔として「掃き溜め」に出入りしている。
そこに住む者は金さえ出してやれば簡単に口を開くし、何でもするからだ。
金で命を買っているようで福本はこの方法は好まなかったが路地裏に住む者は滬西の裏の顔を熟知している者が多かったから、情報収集のため彼はそこに通った。
彼がよく情報を買う者になまえという女がいた。
彼女は年若かったが、なかなかに目端が利いて細かいことにもよく気が付く女だったから、持ってくる情報も他の路地裏の者より精度が高く、それ故福本もなまえをそれなりに重宝した。
だがそれだけなら少し賢いどこにでもいるただの路上生活者だ。
福本がなまえに殊更注目したのは彼女の情報に対する「対価」だ。
初めて会った時、彼女は情報の対価として相応の金をちらつかせた福本を笑う。
曰く、そんなものは求めていないと。
不審がる福本に彼女は言った。
―対価は貴方の声がいいわ。ねえ、私に本を読んでほしいの、と
「本当にこれでいいのか?」
隙間風の通る彼女の住処で胡坐を掻いて床に直に座る。椅子なんて高尚なものは彼女の家にはなかった。
傍らに寝転んで、福本の膝の上に頬杖を突いて薄らと笑う彼女に再度確認をする。
本当に本を朗読することが対価でいいのかと。
彼女は福本を上目に見てその笑みを深めた。
「いいの、だって貴方の声、とっても素敵だもの」
返答に肩を竦め、最早何も言うまいとばかりに福本は持参した本を開く。
読み聞かせなんてしたことがなかったから、どんな本を持ってきたらいいのか分からず結局子供向けの童話になってしまった。
それは福本も小さい頃に読んだ話。
貧しい生まれの女が王子に見初められて幸福を手にする物語。
福本にとってそれは弱者に都合の良い虚構だったが、彼女にとってはそうではなかったようだ。
演技派の福本が人物に応じて読み分けをしてやると、彼女はきらきらとした目でそれを聞く。
彼女はよくできた聴衆だった。
物語の主人公が危機に陥れば息を詰めて続きを促し、試練に遭えば同じように嘆いた。
一冊全てを読み終える頃には福本も軽く汗をかいて役に入りきるほどだった。
手を叩いて喜ぶ彼女に福本は「これはこれで悪くない」と内心で目を細めた。
それから彼女との密会に福本は必ずなにかしらの本を持っていくようになった。
彼女はどんな本でもよい聴衆となった。たとえそれが小難しい哲学書や文学の類であったとしても。
そして福本が読み終わった後には必ず本の内容について討論した。
驚くべきは彼女の洞察力や分析力が並外れて高かったことか。
粗削りで体系的でない部分はあったが、彼女は福本が普段相手にしているどの連中よりも彼を楽しませた。
そうして半月ばかり経った頃だろうか。
相変わらず朗読をせがむ彼女に福本は問うた。
「なぜ、金じゃあないんだ?」
「何のこと?」
「俺が知っている『この辺り』の連中は大体何につけても金を要求してくる。だがお前はそうじゃない」
「あら、私たちみたいな貧乏人は知識よりお金を欲しがってると思ってるの?完全な偏見だわ」
気分を害したのか頬を膨らませる彼女の顔には苦労の跡が刻まれていた。
女で、そして一人で「こんなところ」で暮らさなければならない彼女ができる仕事などほとんどないだろう。
時にはその身を売って日銭を稼いだかもしれない。
だからこそ福本は俄かには信じ難かった。
彼女が本当に金も欲しがらず、福本と「こうしている」だけだなんて。
少なくとも辛い仕事などせずとも暮らしているだけの金が手に入るかもしれないのに。
「知識が欲しいのか?」
「ええ、私学も何もなくて字もまともに読めないけど、勉強していつかきっとここを出ていくわ。そして幸せを掴むの。……あの、お話のお姫様みたいに」
照れたように俯く彼女に福本は奇妙な話だが納得した。
彼女は自らの力で立とうとしているのかと。
踏み躙られながらもそれでも前を向いてこの「掃き溜め」から一歩を踏み出そうとしている。
そういった向上心のようなものは福本は嫌いではなかった。
「……字、ぐらいなら教えてやれるが」
「本当に!じゃ、じゃあ、時々、貴方の時間が余ったらそうしてくれると嬉しい!」
それからなまえに対する情報の対価に「字を教えること」が追加された。
なまえはとても物覚えがよく、かつ福本の教え方の上手さもあって乾いた大地が水を吸い込むように文字を覚えていった。
あっという間に日常で使われる文字は覚えてしまい、これには福本も舌を巻いた。
読み書きを覚え始めた彼女がもたらす情報はそれまでよりもより精度を増した。
しかし思わぬ副産物を得たと福本がほくそ笑むのも束の間、彼女との「密会」は頻度を減らしていく。
彼女が福本を住処に呼ばなくなったことが一つ。
もう一つは福本の本来の任務である及川の方に動きがあったことだ。
そちらの方に関わっていたから、暫くなまえとのささやかな「勉強会」は途絶えていた。
週に2-3回は会っていた彼女とも気付けば二カ月ほど連絡を取り合っていなかった。
福本が彼女の存在を思い出したのはそれから少し経ってから。
本間をうまく誘導して及川を追い詰めることに成功してからだった。
及川の件は片が付いたが、福本にはまだ上海での任務が残っている。
その件に関する情報を得るために彼女の住処へと向かった。
そこは以前とは様変わりしていた。
以前は埃っぽくはあったがそれなりに清潔に保たれていた。
窓枠に蜘蛛の巣が張ってあるのを見たことだってなかったし、何より少しでも女性らしくあろうとするなまえの努力があちらこちらに見られた。
それが今は部屋の隅には埃がうず高く積もり、あちらこちらに蜘蛛の巣がある。
そして家主の彼女は、床に茣蓙を引いた寝所とも呼べないような所で一人体を丸めて横になっていた。
その顔は青白く、息は荒い。
「あ……貴方、約束、今日だった、かしら」
「具合が悪いのか?」
「ええ、もうずっと。……多分今日か明日には、冷たくなってるわ」
仕方なさそうに笑う彼女の手は冷たい。
枕元に座り込んで、その額に手を当てた。
驚くほど、熱かった。
「……いつかここを出ていくんじゃあなかったのか?」
「ふふ、無理だったみたい。……ねえ、『お礼』って先払いも受け付けてくれる?」
「……別に構わないが」
もう遣り取りする情報もなかったが、今まで世話になった礼だと福本も請け負う。
彼女は安堵したようにまた笑った。
「ありがとう。あのね、教えて欲しい字があるの」
「どんな字だ?」
「貴方の名前。どんな字を書くの」
「『朔』。……こう書くんだ」
彼女の右手を取ってその掌に書いてやる。
何度も、何度も。
「はじめ、いい名前。新月のことね。見えないようで、確かに存在する。……貴方に、ぴったり……」
不意に呼吸が止まったように静かになる彼女に、福本は彼女の名を呼ぶ。
その声に引き戻されたように薄らと目を開いた彼女は腕を僅かに振って福本を追い払うような動作をする。
「もう、行って。死に際なんて貴方にだけは絶対見られたくないわ」
眦から一筋涙が重力に従って零れ落ちる。
福本は拭うことはしなかった。それをするのは酷だと思った。
立ち上がって踵を返し外に続く扉を開ける。
「……さよなら、私の朗読者さん」
彼女のか細い声が背後で聞こえた。
福本は、振り返らなかった。