追憶

福本が背広のポケットから手を引き抜いた時に、何か白いひものようなものが落ちたことに波多野は気付いた。
福本は気付いていないようだったから後ろから声をかけて教えてやる。
すると彼は驚いたように目を見開いて、慌ててそれ―白いリボンを拾って再びポケットに突っ込んだ。
それは波多野にとっては意外なものだった。
普段何を考えているのかよく分からない風貌の福本がこんなにも「分かりやすい」行動をとるなんて。

「『お気に入り』への贈り物か?」

にやにやと嘲笑うように問えば、福本は少しムッとしたように「違う」とだけ吐き捨てる。
これはいよいよ珍しいと波多野がにやにや笑いを引っ込めれば、福本は話すことはないというように彼に背を向けて部屋を出ていった。
後に残された波多野は鼻を鳴らして再び手元の本に目を落とした。

廊下に出た福本は気取られぬように息を深く吐く。
冷静にならなければならない。
少なくとも「ここ」に来た以上は。
だがその白いリボンは福本にとって大切な意味を持っていた。

それは福本がまだ福本でなかった時の、唯一の名残だった。

***

まだ福本が一介の帝大生だった頃だ。
彼は同級生たちに連れられてとあるカフェーに行った。
なんでもそこにはこのあたりでも有名な看板娘が接客してくれるらしく、同級生たちはその噂を聞きつけて福本も誘ったというわけだ。

福本自身はあまり意識していなかったが、彼は当時からそのミステリアスさで女から人気だった。
そのせいか同級生たちが女を漁りに行く時は、大抵福本も連れていかれた。曰く「お前がいた方が女からのウケがいいんだ」だそうだ。

その日もその延長線上で「カフェーの看板娘」との接点作りのために福本は行きたくもないカフェーに連れられて行った。
それが彼女との出会いだった。

結論から言うとそのカフェーは可もなく不可もなくといった評価だった。
メインとなるべきコーヒーも極端にまずくもなければうまくもない。
本当に何とも言い難い店だった。

ただ、件の「カフェーの看板娘」だけは違っていたのである。

彼女はとても美しかった。
丁寧な接客は心地よかったし、同級生たちが彼女にしつこく絡んでも、それを軽くあしらいながら給仕をこなす姿に関心もした。
何よりその朗らかな笑顔は純粋に福本の心を揺り動かした。
誰かに心を揺り動かされるなんて初めてだった福本は結局一時間ほどそのカフェーに留まっていたわけだが、その間一度も彼女から目を離さなかった。

カフェーを出てからも彼女の顔が頭を離れなくて、生返事ばかりする福本に同級生は顔を見合わせたものだ。
だが福本はそんなことなど露ほども気にならなかった。
もう一度、あのカフェーに行ってみようと心に決めていた。

再びカフェーを訪れた時彼女は福本を覚えていてくれた。
一度来た客の顔は忘れないのかと感心した福本に彼女は笑う。

「違うわよ。何度来たって覚えられないお客はいるわ。貴方の場合はずっとこっちを見てるのに何考えてるのか全然分からないからよ」

「……気付いていたのか」

顔から火が出そうとはこのことかと福本は思う。
自分の視線が気付かれていたとは。

「私、お客のことはちゃんと見てるのよ。これでも看板娘なんだから」

くすくすと笑いながら福本の目の前のカップにコーヒーを注ぐ彼女は店内に福本以外の客がいないことを確認すると彼の向かいに座った。

「貴方面白いのね。普通なら貴方のお友達みたいに話しかけてくるお客が多いのに、貴方は違うんだから」

「仕事中だろう。迷惑かと思った」

「あはは、お客の相手をするのも仕事の内だわ」

「じゃあこれも仕事の内と言うわけか」

思ったよりも拗ねたような声が出て福本は自分にうんざりする。
彼女の前ではどうも調子を崩される。

「そうね。でももし次来てくれたら、今度はお友達としてお話しましょ」

花開くような笑顔を残して席を立つ彼女から香った香りに福本は眩暈がするような気がした。
その日はもう彼女は席に来てくれなかったが、福本はずっと彼女を見ていた。

「良かったらまた来てね。今度はサービスするから」

帰りがけににっこりと笑って手を振られて、福本もそれに手を挙げて返す。
彼女の赤い唇が妙に脳裏に焼き付いた。

それから福本は彼女の許に通うのが習慣となった。
最初は彼女も驚いていたようだが、次第にそれが当たり前となってからはむしろ福本が来るのを楽しみにするようになったようだった。

彼女は名前をなまえといった。
女優を目指して劇団に所属していて、生活費を稼ぐためにカフェーで働いているらしい。
歳は教えてくれなかったが(曰く女性に歳を聞くことほど失礼なことはない、そうだ)少なくとも福本よりは年上のようだ。
いつも黒く豊かな髪を白いリボンで結い上げていた。

なまえのことを知るにつれて福本は彼女の魅力に引き込まれていく気がした。
そうして彼のカフェー通いはよほど忙しい時でない限り3日と空けられることはなかった。

人が変わったようにカフェー通いをする福本に周囲の同級生たちは驚いたが、目当てが件の看板娘と知ると結局は福本も人の子かと口々に笑いあった。