依頼人に弁護を依頼されて、グレグソン刑事にお小言を貰いながらも現場を調査して、関係者から話を聞き、疲れ果てた僕らはそろそろ下宿に帰ろうかと寿沙都さんと歩き出した。明日の弁護の方針を話しながら中央刑事裁判所の前を通り掛かった時だ。
「おや、ミスター・ナルホドーにミス・スサト」
何だかとても美麗な紳士に声を掛けられてしまった。整った顔立ちの紳士は一目見たら分かる質の良い背広に外套を着て、穏やかに微笑んでいる。こんな紳士一目見たら忘れないだろうに、僕には全く覚えはなかった。横目で寿沙都さんを見たけれど彼女も驚いたままだった。
「えっと、」
「ま、まさか、ナマエ、さま……」
「………………え?……えええええっ!?」
てっきり寿沙都さんも目の前の紳士が誰なのか分からないのだと思って「どちら様ですか」と尋ねようと思ったのだけれど、寿沙都さんはあまりの驚きに言葉を失っていただけのようだ。その口から想像もしなかった名前が飛び出て僕は一瞬凍りついてしまった。
「やめてくれよ。今の僕はジョン・スミス。しがない情報屋さ」
にっこりと笑ったナマエさんは、ハットの縁をなぞってからステッキのハンドルを撫でた。その様子は正に立派な英国紳士さながらで、まじまじとナマエさん(今はジョン・スミスさん)を上から下まで見る。はしたないと寿沙都さんに睨まれたけれど、どこからどう見てもいつも見る良家の娘さんのようなナマエさんの片鱗は見て取れない。
ナマエさんが会釈するようにハットをずらすと隠されていた白銀の髪がちらりと覗いた。確かに瞳も赤色で髪の色もナマエさんのそれなのに、全くと言って良い程分からなかった。これが。
「『コツ』というヤツですか……」
「ふふ、調査の基本は周囲に溶け込む事だよ」
嫣然とした微笑みに僅かにナマエさんの欠片を見たけれど、でもきっとホームズさんだって今のナマエさんには気付かないのではないかしら、ふとそう思った。それくらい、「ジョン・スミスさんの変装」は完璧だった。
「それで、えっと、ジョンさんはどうして中央刑事裁判所に……」
「ああ、知人に呼ばれて……」
「…………君は何故、そのような格好をしている?」
突然、背後から背筋の凍るような冷たい声が聞こえる。背中に氷柱か何かを突っ込まれた気分だった。そして僕はこの声の主の事を知っていた。
「…………、やあ、バロック!久し振り」
「バ、バンジークス卿……」
振り返りたくなさ過ぎたけれど、ゆっくりと振り返ったら、やっぱりそこに立っていたのはバンジークス卿だった。いつものように氷のような表情をしている。……が、なんだろう。どこか「苛立っている」ように見えた。
対するナマエさんはニコニコと朗らかにバンジークス卿に笑い掛ける。二人は知り合いだったのか、という驚きと、あんなに怖いバンジークス卿にナマエさんはよく向かっていけるな、という驚きが僕を襲う。寿沙都さんも「お知り合いだったのですね」と驚いている様子だ。
「彼に呼ばれたんだよ。彼は僕の『友人』」
「ゆ、うじん……」
思わず二人を見比べてしまう。友人、というのは僕と亜双義みたいな関係という事だよなあ……、と思いを馳せる。でもバンジークス卿は殊更に「ムッ」とした表情を作った。そしてバンジークス卿が、感情を表に出している事に僕は今更ながら気付いた。
「…………君は、婚約者を他人に紹介する時に、友人として紹介するのか?」
「………………は?」
僕の顎はきっと今外れているのではないかしらん。驚き過ぎて声も出ない。隣の寿沙都さんも同じようだ。僕らは阿呆のように目を見開いて口を開けて突っ立っていた。ナマエさんは肩を竦める。
「あらあら、言葉を生業にする方が何を仰っているのやら。……『元』婚約者なのだから友人に変わりないでしょう?」
あ、今少しだけナマエさんの口調が出てきた。そう思ったが口に出す事はやめておいた。バンジークス卿の顔が怖過ぎたからだ。何か深い訳があるようだ。詮索は身のためにならない。
「大体貴族の息女がこのような身形をするなど、」
「今日は依頼があったのです。御約束の時間までにはいつもの装いに着替えられると思ったのですけれど」
「……まだ、情報屋などしているのか?」
「あら、わたくしが何を生業にしようと貴方には関係ないのではなくて?」
綺麗な顔二つが言い争いをすると怖いなあ。何だか立ち去るに立ち去れなくて僕らはとても気まずい思いをしながら二人を見守る。ナマエさんにはバンジークス卿の威圧感なんて効かないようだ。全く怯む事無く言葉が紡がれていく。対するバンジークス卿の方がどこか押されているような気がする。婚約者というバンジークス卿の言葉と、「元」婚約者というナマエさんの言葉を思い出してしまった。
「…………バンジークス卿は、ナマエさんがとても大切なのですね」
「…………」
こう、つい。言葉が口を突いて出てしまった。別に二人の言い争いを止めたい訳ではなかったのだが。でも僕の言葉にバンジークス卿は目に見えて冷たい視線を僕に送る。あまりの冷たさに僕のコシが引けてしまった時だ。
「ふふ、彼の今の本心はどうか分からないけれど、ミスター・ナルホドー。わたくし、彼からの求婚の言葉、今も覚えているわ」
不思議だ。紳士の格好なのに、今、笑顔のジョンさんがナマエさんに見えるのだ。寿沙都さんも夢見る乙女のような顔でナマエさんの次の言葉を待ち侘びている。
「バロックはあの時、」
「……そのような話を貴公らとするために、ナマエをここに呼んだ訳では無い」
まるでフツゴウな真実を隠すみたいにバンジークス卿はナマエさんの口を骨張った手で塞ぐ。その一連の動作だけ見ても、バンジークス卿とナマエさんの関係性が見て取れて、僕は何だかとても恥ずかしくなってしまった。
「まあ、恥ずかしがらなくても良いのに。でも仕方ありませんね。では、ミスター・ナルホドー、また下宿の方にお邪魔させていただきますね」
……ナマエさんが余計な事を言うから、去り際のバンジークス卿の視線の冷たさったらなかった。しかもナマエさんが用があるのは僕じゃなくて、僕を間借りさせてくれているホームズさんなのに。
そして帰り道の寿沙都さんの興奮っぷりったらなかった。やっぱり女の人はコイのお話が好きなんだなあ。