任務を終えてアジトに帰ってきたらナマエがいて何だか安心したような気持ちになるのはおかしいのだろうか。両手でマグカップを持って、控えめにココアを啜っていたナマエが振り返って「おかえりなさい、ギアッチョさん」と眠そうな声で囁くのだ。そういえば世界はもう、夜更けの闇に包まれていた。
「まだ起きてたんか」
「リゾットさんから、ギアッチョさんは夜中には帰ってくるだろうと聞いていたので」
小さく欠伸を溢しながらソファに俺が座るスペースを開けるナマエに何か心臓の辺りを掴まれた気分になる。誤魔化すように乱暴に座ればナマエが反動で少し跳ねた。
「てか帰りゃあ良いのによ。自分の家ぐらいあるだろ」
「…………なんだか、こっちの方がいつも誰かがいるから、」
ナマエは口籠るように視線を下ろしてからはにかむように「さびしくないのです」と囁いた。きっと昼間の俺なら何らかの揶揄いを口にしたような気がするのだが、今のナマエの様子が少し違って見えて「そうかよ」と無難な言葉しか吐き出せなかった。
「………………」
ナマエがココアに口を付けるのをぼんやりと眺めていた。彼女は猫舌なのでいつまで経ってもカップの中身は減らないのだ。俺の視線に気付いてナマエが目を丸くした。
「ごめんなさい。ギアッチョさんも何か飲みますか?」
「今はいいわ。なんか、今日はすっげぇ、疲れた……」
アジトに帰ってきたら、ナマエの存在を感じたら、忘れていた虚脱感が一気に襲ってきて戯れるようにナマエに身体を預ける。咄嗟にカップをテーブルに置いたナマエも何も言わずに俺を受け止めてくれたが、重みに耐え切れずに二人してソファに倒れ込む。
「ギアッチョさん、寝るなら仮眠室に行った方が」
「もう動けねーよ。わり、三十分で良いからよォ」
急激に目蓋が重くなる。ナマエが俺の名を呼んだ気がした。
夢はとうの昔に見なくなっていたのに、何故だか母親のような存在に抱かれて寝かし付けられているような気がした。暖かくて柔らかな腕の中で、小さく旋律が聞こえた。
「…………、ぁ」
「……ギアッチョさん?起きましたか?」
「……っ!ナマエ、お前」
目を開けたらナマエの顔があって怒鳴り倒しそうになったのを寝る前の記憶が蘇って既のところで堪えた。ナマエは母親が子供にするように俺の髪を軽く梳くと淡く微笑んだ。
「もう少ししたら、起こそうと思っていました」
「あー、悪い、」
「動けるようなら仮眠室に行きましょう。ちゃんとしたところで寝ないと疲れも取れません」
俺の肩を押して起き上がろうとするナマエの顔をじっと見た。ナマエのグレーの瞳が俺を見返した。青く縁取られた虹彩まで見えて、俺以外がこの色を知らなければ良いのにと思った。当然のようにナマエの顔に顔を寄せて、俺は彼女の唇を奪っていた。
「…………!」
当然だが驚いたようにナマエが目を見開くが、俺は俺の行為を弁明する気も誤魔化す気も起こらなかった。
「ギアッチョさん、」
「悪い」
「……ギアッチョさんも寂しいのですか?」
「……そうかもな」
ナマエが眉を下げて息を吐くように笑った。ナマエの寂しさの意味を俺は多分知っている。きっとチームの中では俺しか知らない。あの日ナマエから聞いた断片を、俺は一人で調べ上げて組み合わせたのだから。
十数年前、ネアポリスの裕福な家庭が襲撃された。夫は喉を裂かれて殺され、身重だった妻は陵辱された後に血の海の中で窒息死したそうだ。翌日になって十にも満たなかった娘だけがクローゼットの中から発見された。娘は「全て」を見ていたそうだ。下手人については今も不明。
地方新聞の三面記事にはこれだけしか載っていなかった。それでも俺はこれはナマエの事だと確信した。そしてナマエの中に時折見えるどうしようもない「悪」への憎悪はこの記憶を苗床にしているのだろうと。
「…………なあ」
言葉が整う前から声が出た。ナマエは俺の言葉を促すように首を少し傾げた。グレーの瞳に見つめられると、胸の辺りがやはり締め付けられるような気がした。それでもそれは悪い気持ちではない。
「今夜は一緒にいようぜ」
何も考えずに吐き出した、この言葉を正解だと思った。空気に溶けた言葉を解したナマエが安心したように微笑んだからだ。彼女の小さな身体を抱いて狭いソファに二人して身体を埋める。ナマエが肌寒そうに身を震わしたから放ってあった汚いブランケットを掛けてやる。何も無いより幾分マシだろう。
ナマエが甘えるように首筋に額を擦り付けてくるのが妙に気分が良かった。