拒絶せよ、愚かな者ども

予定よりも任務に時間が掛かった。アジトへの近道を通って戻ろうと、裏道へ入ったら「彼女」はいた。

もう一歩も歩けない、そういう顔で道端で蹲って、その周りを何故か小さな猫が鳴きながら彷徨いていた。

「……ナマエ?」

「…………、?ぁ、り、ぞっとさん……」

俺に名を呼ばれてゆるゆると顔を上げたナマエは困ったように微笑んだ。見える所に傷は無いが、それでも僅かに血の臭いが鼻についた。

「怪我をしているのか?誰にやられた」

俺の表情に不穏さを感じ取ったのか、ナマエは緩く首を振る。「なにも」と短く、甘く呟かれるとそれ以上追及する気が何故か湧かない。

「てお、」

弱々しい声が落ちて、ナマエは何かを探すように手を探る。その手に子猫が擦り寄って、ナマエは安堵したような表情を見せた。

「誰にやられた?何をされた?」

「誰にも、何も。リゾットさんは、任務の帰りですか?」

噛み合わない会話に苛立ちが募ってナマエの腕を掴むと彼女は困ったように眉を寄せた。そしてそれはナマエが痛がっている顔と同じような気がして、俺は咄嗟に彼女の上衣を剥いだ。

「……これは、どういう事だ?」

冷静にならなくてはならない。でないと俺はきっと。吐き出す息を細く長くする。ナマエの腕には、否、腕だけでも夥しいくらい歯形の跡が残っていた。跡なんて生優しい物じゃあない。血が滲んだそれは加減も無しに噛み付かれた事が一目瞭然だった。

「……どうもしないんですよ。でももし、お疲れでなければ、つれて帰ってほしくて」

いつにも増して青白いナマエの頬に何を言えば良いのか分からなくなる。俺はもっと、はっきりと物を言える人間だったと思うのだが。

取り敢えず、ナマエを抱き上げると彼女は俺の腕の中で不明瞭に礼のような言葉を呟いた。軽い肉体と、ナマエの腕の中で神妙にしている小さな生き物の事が気になっていた。

***

アジトに帰って来た俺を、仲間が迎え入れてそして、驚いたような顔を僅かにでもした。それはそうだ。単身で出た俺が何故か負傷したナマエを抱えて帰って来たのだから。

仲間たちは何か物言いたげな顔をしたがナマエの様子を見て弁えたのか誰一人、何一つ口にする事は無かった。取り敢えず仮眠室にナマエを寝かせてからホルマジオ辺りにでもナマエの手当てを頼もうと思って止めた。彼奴はナマエの「秘密」を知らない。仕方ないので俺が手当てをしようと思ったがどうにも余計な事ばかり考えてしまう。

仲間の負傷の手当てなんて慣れているはずなのに、俺の手は迷うばかりなのだ。上衣を脱がせただけでもありとあらゆる所に噛み跡や切り傷、擦過傷、数えるのもキリがない程存在した。そしてそれがナマエに「苦痛を与えるために」つけられた物である事も一目瞭然だった。

出来るだけ早く、出来るだけ丁寧にナマエに簡易の治療を施してやる。そういえばナマエの傍に纏わりついていたあの生き物はどこに行ったのだろうと頭の片隅で考えた。それと同時に仮眠室の前に気配が立った。ギアッチョだ。

「…………どうした」

振り返ると当然だがやはりギアッチョが立っていた。全員を代表して来たのだろうか。だがそれとは違う可能性を俺は知っている気がした。ギアッチョは言い難い事を言おうとするかのように唇を一瞬引き結ぶ。

「あ、のよ。……ナマエは」

「知っている。先日の任務で、負傷の手当ての時に知った」

「……そうかよ」

異常な程、殊勝に俯くギアッチョに寒気がする。彼は言葉に詰まるように喉を鳴らすと俺を、否、俺を通り越してナマエを見た。

「っ、ナマエは、大丈夫か」

「一つひとつの怪我は大した事はない。寧ろ、誰が何のためにしたか、そちらの方が問題だ」

ギアッチョが苦々しく顔を歪めた。俺も恐らく同じ表情をしていただろう。だが、室内の緊迫した空気はナマエの静かな呻き声に壊れてしまった。

「……ん。……あ、リゾットさん。と、ギアッチョさん。……良かった。連れて帰ってもらったのは夢じゃあなかったんですね」

寝ぼけ眼を擦りながらゆっくりと身体を起こすナマエには、先ほどまでの憂いのような感情は見えず、今はただいつもの超然とした雰囲気を纏うだけだった。すかさずギアッチョがナマエの許に寄るので俺は一人分の場所を空けてやる。

「オ、オメェ、何があったッ!?」

「……特に何も、?」

「何も無くてそんな訳の分からねェ傷拵えて来んのかよ!」

ギアッチョの顔に嫌悪のような表情が浮かぶのを他人事のように見ていた。ギアッチョはナマエにこれらの傷を負わせた者に対して嫌悪感を抱いているのだと俺にすら理解出来た。そして同じ事にナマエも気付いただろう。なのにナマエは何も知らないフリをして、俺たちを拒絶するのだ。

「何も無いですよ。何も。『そんな事、聞かないでください』」

何も知らないような顔をするナマエに今程苛立ちを感じた事は無い。きっとギアッチョだって同じはずだ。