深い井戸から汲み出す

結局ナマエは再度の負傷など無かったかのように振る舞った。たまたま指令が降りて来なかったから、任務にこそ着かなかったがきっと命令されれば拒否しなかっただろう。

ぼんやりと俺の隣でココアを飲みながらテーブルに投げ置かれた雑誌を捲っているナマエを横目で盗み見た。雑誌は誰が置いたのか低俗な内容が踊っている。ナマエが見ても面白くないだろうな、と何となく思った。

思った通りナマエはページを流し読みするとそれをまたテーブルにゆっくりと戻した。それからまたカップに口を付け、ふう、と細く息を吐いた。ナマエが立ち上がりそうな気配を感じ取って、俺は漸く覚悟を決めた。

「なあ、ナマエよォ」

「はい、なんですか?」

ナマエが俺を見る事で、俺はどうも俺がいつもの自分でいられなくなってしまうような気がした。いつものようにキレ散らかしたり物に当たったり、それすらも出来なくなるような気が。

ナマエは俺を見て、話を促すように口角を上げた。そういう相手の口を緩ませる技術は尋問にも応用出来るのではないかと、ふと思った。

「飯行かねェか」

キッチンの方でメローネとイルーゾォが何か話している声が聞こえた。ホルマジオは任務、プロシュートはペッシを連れて外に行った。リゾットは三徹をナマエに指摘されて先程仮眠室に叩き込まれた。ソルベとジェラートには二週間は会ってねえ。偶然にも俺たちは「二人きり」だった。

「ご飯」

「そーだよ。もう良い時間だし、腹減っただろ。奢ってやるから行こうぜ」

仲間を飯に誘う、ただそれだけの事なのにどうして俺はこれ程言い訳がましく、そして気まずくなりながら言葉を探しているのだろう。ナマエの反応を見るのがとても怖いのは、何故なのだろう。

「……そういえば、お腹空きましたね。行きたいです」

だからはにかむようなその顔に、どうしても赦されたような気分になってしまう。俺という存在をナマエが受容してくれたのではないかと感じてしまう。

「おー、何処行きたい?今なら何処でも連れてってやるぜ」

今度は安堵から言葉がするすると口から出てくる。ナマエとの会話は何故か難しい。上手く言葉が出てこなかったり話し過ぎてしまったり。いつもは考え無しに放たれる言葉たちなのに、ナマエと話す時はどうしても言葉の先にいる彼女の事を考えてしまう。

ナマエは少し考える素振りをして、それから困ったように俺を見た。

「お店の事よく分からなくて。ギアッチョさんがよく行くお店に行ってみたいです」

「俺のよく行く店ェ?……あんまセンサイな味とか期待すんじゃあねェぞ」

「私は何でも美味しく食べられる所が取り柄です」

「……おー、そりゃあ良いな」

人懐こそうな笑顔に心臓の辺りが絞られるように痛んで、ナマエから微妙に視線がズレる。ナマエは不思議な存在だ。俺はこの女の事が嫌いだったはずなのに、いつの間にか笑った顔を向けられたいと思っていた。俺の言動で此奴が笑ったら安心してしまう。ナマエが任務で不在の日は、早く帰って来いと思う自分がいる。いつ野垂れ死んでもおかしくない身なのにナマエの視線が俺に向けられている内は、まだ生にしがみ付きたいと思ってしまう。

この感情に名前を付ける事が出来ると知っていた。だが俺がその感情を持つ事が許されるのかは分からなかった。それなりに経験もあったはずなのに、今までのどの経験ともナマエは違っていて、そして「今まで」と同じ扱い方をしていたら彼女はすぐに壊れてしまうだろうと気付いて俺は絶望した。俺はその方法しか知らないのに。

ナマエを助手席に乗せて車を走らせる。物珍しそうに車内や車窓に忙しなく目を遣るナマエの姿は小動物のようで、やっぱり安堵のような感情が広がった。

「ナマエは免許持ってねェんか」

「無いです。時々電車に乗りますがあまり市外に出る事も無いので、歩いて行く事が多いです」

「ふーん。まぁ足が必要なら言えや。送ってやらん事もねェ」

「ありがとうございます。ギアッチョさんは優しいですね」

他愛も無い会話なのにきっと俺だけ心臓を三個ぐらいは潰されたのだろう。信号待ちで不意に俺を目に映したナマエの顔に辛抱し切れなくなって顔を寄せてしまった。ナマエは驚いたように一瞬顔を引いたがそれでも明確な拒絶はせずに俺を受け入れた。触れるだけで離れた俺を見るナマエの表情は上手く読み取れなかった。

「……悪ぃ」

謝罪とか、クソダサ過ぎる。ナマエ何も言わずに首を振った。それは俺の感情に気付いているからだろうか。それとも俺のこの行いに対して何も感じていないからだろうか。信号が変わりアクセルを踏む。ハンドルを握り締める。何か、言った方が良いのだろうか。だが、今、何を言っても弁解に聞こえてしまうような気がする。車内の空気が俺だけ重い。ナマエは何事も無かったかのように車窓に目を遣っていた。

「あの、よォ」

「……、はい?」

掻き消されそうなくらい小さな声だったと思ったのに、ナマエには聞こえていたようだ。俺を振り返った彼女は揺らぎの無い水面のような表情をしていた。

「さ、さっき、のは、別に、勢いとかノリでしてる訳じゃあねェ。俺は本気のつもりだ。けどよォ、オメェにどうやったら伝わんのかが分からねェんだよ。俺はよォ~、オメェの事をほとんど知らねェからな」

「…………、」

「あ~、だからよ、分かんだろクソがッ!オメェの事教えろっつってんだよ、クソッ!」

咄嗟にインパネを殴る事を回避出来た自分を褒めてやりたいと思った。ナマエの表情は変わらなかった。俺の事をじっと見るその目は吸い込まれそうな色をしていて、柄にも無く「綺麗だな」と思っていた。餓鬼が宝石のような綺羅綺羅した物に目を奪われるような感覚だ。それがどれくらい続いただろう。数秒に満たないその時間が永遠のように永く感じた。ただ俺を見ていた目が瞬いて、それからぎこちなく視線がずれた。表情は窺い知れないが白い耳はいつもより幾分も赤い。

「分かる、かは分かりませんが、分かりました」

「どっちだよ……」

「分かりました。ギアッチョさんが私に対して向き合おうとしてくださる事」

また信号に引っ掛かった。今日はタイミングが悪い。信号の度に引っ掛かっている。手持ち無沙汰な右手を何気なく膝の上に置いたら、その上に柔らかな感触がした。助手席からナマエが手を伸ばして俺の右手に触れていた。ギョッとして手を引こうとするのをナマエが少し手に力を込めて制している。その手が震えているような気がした。

「……私は、他人に疎くて誰の事も知らなくて良いと思っていました。でも、ちょっと改めます。向き合ってくれる人の事を理解したり理解してもらったり、努力、します」

ナマエが助手席から身を乗り出すのがスローモーションで見えた。クソダセェ事に内心で動揺しまくる俺の右頬と口端の間にナマエの唇が当てられて、俺が絶句していると後ろから派手にクラクションを鳴らされた。

「信号が青になっています」

何でも無いように助手席に戻ったナマエがそう口にするのが悔しかったがその頭を乱雑に撫でてやる事で帳消しにしておいてやった。